72 カブトムシ
5時半過ぎ、智子は裏門から学校を出た。
寒くもなく暑くもない最高の季節の夕方、智子は顔、耳、首、手……服から出て
いるありとあらゆる場所に紫外線カットの日焼け止めを塗っている。
いつもは学校を出るとまっすぐ家に帰る智子なのだが、この日は久しぶりの晴れ
だったこともあり、少し回り道をして帰ることにした。
滝小学校のすぐ東には福井川という小さな川が流れている。
智子の子供の頃は川原があり、短い草が生えていたのだが、今は全てコンクリー
トで覆われている。
智子は橋を渡り、坂の上にある公園に出た。
公園からは海が見える。
夕陽が見える。
淡路島が見える。
智子はベンチに座り、水筒のお茶を口に含んだ。
家が反対側にあるため、子供の頃はあまり来ることのなかった場所だが、最近は
数カ月ごとに訪れている。
大人になった智子のお気に入りの場所なのだ。
ただしここは地元では有名なデートスポットなので、若い男女が先に来てまった
りしている時は、遠慮して立ち去るようにはしている。
この日は智子以外には誰もいなかったので、ゆっくり15分ほど夕陽と行き交う
電車を眺めた。
水筒の中のお茶がなくなったところで智子は腰を上げ、帰宅することにした。
時計を見ると6時を少し回ったところだった。
智子はその後もいつもとは違う道を辿り、健太の住むアパートの前に出た。
智子は何気なく2階にある健太の部屋の扉を見てみると、貼り紙がしてあるのが
目に入った。
紙はノートを無造作に破いたもので、字は鉛筆で書かれている。
字が薄く距離があるためそこになにが書かれてあるのかは分からないが、智子は
その内容が気になって仕方がなかった。
本来ならば見に行く必要はないだろう。
しかし、もしかしたら急を要するようなことが書かれてある可能性もある――智
子はただ紙に書かれてある内容が知りたいという好奇心を満たすために、自分勝手
な理屈をつけて鉄の階段を上がった。
アパートの2階にある健太の家の前で足を止めた智子は、さっそく貼り紙の文字
を目で追った。
まさみのいえにあそびにいってきます。(昌巳の家に遊びに行ってきます)
かぎはゆうびんうけのなか。(鍵は郵便受けの中)
←このなかにあります。(←この中にあります)
てをいれてとるべし。(手を入れて取るべし)
見覚えのある汚い字、間違いなく健太が書いた字だ。
(なんで全部ひらがななんだよ……)
このなかにありますという文字からは矢印が伸びており、それは郵便受けを指し
ている。
(泥棒に見られたらどうするんだよ……)
智子はあまりの不用心さに寒気のする思いだった。
この貼り紙があるということは、今この部屋には誰もいない。
しかも、出ている家族の中には鍵を持っていない者がいるのだろう。
数人の家族で1つの鍵を共有しているのは問題ないが、それを健太に預けたのは
家族のミスだ。
健太のような考える力の小さい人間に大切な物の管理を任せてはいけないのだ。
智子はとりあえず貼り紙を剥がし、半分に折って郵便受けに差し込んだ。
(家族が帰ってきたらまずこれを見るだろう。でも、この郵便受けって大人の手が
入るのか? 鍵まで手が届かないんじゃないの?)
智子は試しに自分の手を入れてみた。
手首までは余裕で入るが、そこから下に入れようとするとどうしても肘が邪魔に
なってしまう。
(底にある鍵を取り出すのは不可能だな。そもそも大人だと手首の時点でつかえて
それ以上入らないだろうな……)
やる事はやった智子は、アパートをあとにした。
翌日の休み時間、智子は健太を呼んだ。
「なに? ともちゃん先生」
健太はいつもの能天気な様子で後ろに昌巳を従えている。
「お前昨日、アパートの扉に貼り紙をした?」
「え! なんで知ってんの!?」
「たまたま前を通りかかって見つけたから、剥がして郵便受けに入れておいたぞ」
「それって、ともちゃん先生がやったの? なんだよー。おばあちゃんがポストに
入ってたって言うから、嘘吐くなって喧嘩になったんだよなー。おばあちゃん嘘吐
いてなかったのかよー。騙されたわー」
「別に誰も騙してないだろ」
「えっ? そうなの?」
健太は理解ができていない。
「それより、鍵は無事に取れたのか? あんな細いところに入れちゃったら取るの
大変だったろう?」
「取れなかったけど?」
「……まあ、そうだろうな」
「それより、なんでともちゃん先生は紙剥がしてポストに入れたの? 余計なお世
話じゃね?」
健太は不思議そうな顔をして言った。
「あの紙さあ、もしも不審者に見られてたらどうしてたの?」
「不審者?」
「泥棒とか」
「!」
健太は己の愚かさに気が付いた。
「やっと気付いたか」
「俺……とんでもないことをやってたんじゃないの!?」
健太の細い目がちょっとだけ見開く。
「そうだぞ。お前は泥棒に留守であることを知らせるだけじゃなく、鍵の在り処ま
で示していたんだぞ」
「……」
健太はショックのあまり身体が震え始めた。
言葉を失った健太に代わり、昌巳が口を開く。
「ともちゃん先生が健太のカブトムシ狙ってなくてよかったな」
(なんかよく分からない慰め方だなあ……)
昌巳のフォローの仕方が正しいのかは分からないが、この学校で健太のことを1
番よく知っているのは間違いなく昌巳だ。
智子はそれ以上はなにも言わず、あとのことは生徒に任せるのであった。




