7 肩こってない
家庭訪問は数日に分けて行われる。各家庭の都合もあるが、基本的には距離の近
い家を効率的にまとめて回れるように計画されている。
この日、智子は学校の南側にある海沿いの家を中心に回っていた。
「ともちゃん先生、次は誰の家ですか?」
「次は明石春馬の家だな」
「じゃあ、こっちだ!」
一応スマホに地図アプリをダウンロードしてきてはいるが、生徒たちが先導して
くれるので、智子がそれを使う必要はほとんど無かった。
「先生って明石くんの家には行ったことある?」
声の主は浜本涼香、智子のクラスにいる背が高くて猫背の生徒だ。
「いや、明石を受け持つのは今年が初めてだからな。なにか気になることでもある
のか?」
「うん。明石くんてお母さんが社長なの。だから、家がお金持ちなんだよ。すごい
んだよ」
「へー、そうなのか」
「お家に入るの楽しみでしょ?」
「まあ楽しみだけど、あんまり他人の家の中をじろじろ見るなよ。そういうの失礼
だからな」
「はーい」
春馬の家は国道から少し入ったところにあった。
和風建築のそれは特別に大きい訳ではなく、立地こそ良いものの、庶民的な佇ま
いであった。
(金持ちの家って感じじゃないけどな……)
格子の付いた玄関を見上げながら、智子はチャイムを押した。
戸が開き、春馬とその母が顔を出す。簡単な挨拶の後、智子は玄関の中に招き入
れられた。
入った瞬間、智子は2つのことに驚くこととなった。
1つ目は土間の広さ。おそらく昔の名残なのだろうが、今の時代では単なる無駄
なスペースとしか思えないほどに広い。しかも住人の靴が全く置かれていないため
コンクリートがむき出しのそこは寒々しい印象を与えている。
そしてもう1つの驚き、それは広々とした土間の隅に置かれた「マッサージチェ
ア」の存在であった。
智子は48年間生きてきて、銭湯とホテルと家電量販店以外の場所でマッサージ
チェアを見たことなどなかった。
それが今、目の前にある。
一般家庭の玄関の中にある。
「社長の家だ……」
智子は呟いた。
家庭用なので、もちろん小銭を入れる箱は無い。この家の住人はそんなことなど
気にせずに、どんなときでも好きなだけマッサージが受けられるのだ。
「社長の家だ……」
智子は再び呟いた。
「湊川先生、これ気になりますか? よろしかったらどうぞ」
話を聞かずにマッサージチェアをまっすぐ見つめる智子に、春馬の母は笑いなが
ら勧めた。
「えっ、いいの!?」
「はい、どうぞ」
智子は持っていた荷物を春馬の母に預け、うきうき笑顔でマッサージチェアに腰
を下ろした。
マッサージチェアの黒い革が智子の体重できゅっきゅと鳴る。
「もうちょっと深く座ってください。そう、その辺で。電源入れますよ」
マッサージチェアの電源がオンになり、音を立てて動き始める。
智子の背中を「もみ玉」が刺激する。ぐいんぐいんと動くもみ玉に、智子は顔を
顰めた。上下するもみ玉の動きに連動し、智子の身体も上下する。
「もういいー」
智子はギブアップした。その間、わずか4秒。智子の完敗である。
春馬の母はすぐにマッサージチェアの電源を止めた。
「湊川先生には少し刺激が強すぎましたかね。今のでも一番弱かったんですけど」
「背中を拳でうりうりされてるみたいだった。あと上のやつがちょっと頭に当たっ
てた」
「基本的には大人用ですから」
「そうだなー。見ての通りだなー」
智子はつまらなさそうな顔で椅子から下りた。
次の訪問宅へ向かう道すがら、智子は盛んに背中を気にしていた。
「先生、マッサージチェアは初めてだったの?」
「いやー、大人の身体の時に散々やったはずなんだけどなー。しかも、わざわざ金
払ってやるくらい好きだったはずなのに。今日は全然だったなー。なんでだ?」
「大人になると肩がこるからマッサージチェアが気持ちいいらしいよ」
涼香のその言葉に、智子は驚いた顔をして立ち止まった。
「えっ、じゃあ私いま肩こってないの?」
「そんなの私、知らないよ。先生、自分で分からないの?」
「えっ、どうなんだ? どっちだ?」
そう言うと智子は荷物を涼香に渡し、その場で勢いよく肩を回し始めた。
「こってない! 多分こってないぞ!」
「多分てなに? というか、子供なんだからこってなくて当然だよ」
「ほんとだ! 私肩こってないー!」
すれ違う人たちが怪訝な顔で智子を見ている。
智子はそんなことなどお構いなしに、大声で歓喜の声をあげながら延々と肩を回
し続けるのだった。
「私肩こってないー!!」