66 ドラクロワ
「図工の忘れ物と言えば――」
「やめろー!」
制止する智子を無視し、進介は赤瀬学級での出来事を語った。
その日、進介は彫刻刀を忘れていた。
毎回、忘れ物をする生徒は必ずおり、それは少なくとも5人、多い時は10人を
超えることもあった。
その日は特に忘れ物をした生徒が多かった。
彫刻刀というめったに使わない道具の存在が、生徒たちに「忘れ」を誘発したの
だ。
その数は10人を超え、クラスのほぼ半数にも上った。
赤瀬は忘れ物をしなかった生徒たちを図工室へ送り出し、残った忘れ物をした生
徒たちを教室の後ろに並ばせた。
そして烈火の如く怒るのだ。
まずは1人ずつに忘れた物を申告させる。
その日はほぼ全員が彫刻刀であった。
そこからは赤瀬の怒号を含んだ説教が始まる。
図工室へ行けば予備の彫刻刀があるのだけれど、そんなこと赤瀬には関係がない
のは言うまでもない。
壁際に立たされた生徒たちは忘れ物をした自分が悪いため、もちろん反論などし
ない。
赤瀬は聞く。
「どうして忘れたんだ」
生徒は答える。
「昨日用意して鞄に入れたんですが、彫刻刀を入れたその鞄を今朝玄関に忘れてき
てしまいました……」
「使うのを分かっていてどうして忘れるんだ!!」
「はい……」
(どうして忘れるんだと言われても……)
「どうして忘れたんだ」
「彫刻刀は家にあるのですが、つい忘れてしまいました……」
「家にあるのにどうして忘れるんだ!!」
(どうして忘れるんだと言われても……)
進介は恐怖で頭も身体も固まっていた。
それでも、赤瀬先生にばれないようにちらちら壁に掛かっている時計で時間を確
認していた。
先生が今日だけは怒るのをやめずに2時間まるまる図工の授業に参加できないな
んてことはあるはずがないと進介は知っていた。
赤瀬先生の怒りから自分たちを解放してくれるのは、「反省の態度」ではなく、
「反省の言葉」でもない、「時間」であると進介は知っていた。
毎週誰かが怒られる。
自分がそこに含まれていなくとも、遅れてくる時間はデータとして蓄積される。
「20分」
それが1つの目安の時間。
45分の授業のおよそ半分、それが赤瀬によって奪われる。
「その時」は突然訪れた。
動きがあったのは説教が始まって5分も経たない時だった。
5年3組の前の扉がノックされ、赤瀬が開けるとそこには図工担当の上本静香が
立っていた。
上本は5年1組の斎藤に苛められて退職した鳥谷の後任として赴任してきた教師
であった。
「赤瀬先生、その子たちは忘れ物をしたんですか? 彫刻刀? 図工室には忘れた
子たちが使う用の道具もありますので、すぐに授業に行かせてください。忘れ物に
関する指導も含めて私が対処しますので」
前任の鳥谷は教室に生徒を迎えにくることはなかった。
気が弱くてそれができなかったのかもしれない。
しかし、上本は違った。
「図工の授業って週に2時間しかないので、次からもよろしくお願いします」
「はい、分かりました」
上本の言葉に赤瀬は笑顔で返事をした。
(ついさっきまで赤べこみたいな顔で激怒してたのに……)
進介は赤瀬の変わり身の早さに恐怖を感じつつも、上本の頼もしさには心からの
感動を覚えていた。
進介にとってこの時の上本はドラクロワの描く、「民衆を導く自由の女神」その
ものであった。
「ぼくたち5年3組の生徒は、『これで来週からは図工の授業をまともに受けられ
る』って思ったんです」
「そうか、よかったな」
智子は進介の話が珍しくハッピーエンドを迎えたことに安堵した。
「残念ながら、翌週からも事態は変わりませんでした……」
「えっ!」
智子は意外な展開に大きな声を出す。
「なんでだよ。上本先生との約束はどうなったんだよ」
「赤瀬先生にとって約束とかどうでもいいんです……」
「えー……」
「あの人は生徒を怒りたいんです。それが『日本一のクラス』を作るための必須条
件であり、あの人の考える『青春』なんです」
「そうなの? それにしても、上本先生がかわいそうだよな」
「赤瀬先生って他の授業の進捗も悪かったですし、図工なんてどうでもよかったん
だと思います」
「……」
赤瀬は既に転勤しておりこの学校にはいない。本人に確認できない以上、実際の
ところは分からない。しかし、智子はなぜか進介の言葉に説得力を感じてしまうの
であった……。




