65 トラウマの水入れ
「なんだ高平、水入れ忘れたのか。まあ、別にいいか。そんなもん友達に借りれば
いいし、図工室に行けば余ってるのがあるだろうしな」
この日の1、2時間目は図工である。
そのため朝の会の時に生徒たちは、家から持ってきた図工で使う道具を机の上に
置いている。
朝の会の終わり、智子は進介の机の上にだけ黄色い絵の具用の水入れがないこと
に気が付いた。
「ともちゃん先生、ぼく水入れ忘れてないです」
進介はそう言うと群青色の絵の具バッグを開け、クリーム色の四角い水入れを取
り出した。
「それ、水入れなの?」
「はい、あと2つあるんです」
進介はそう言うと、マトリョーシカのように中からさらに2つの箱型の水入れを
出した。
それにより、3つの口の水入れが完成した。
「へー。そんなのがあるのか。知らなかったなあ。小学生って他の子と同じ物を持
ちたがるけど、高平はそういうの気にしないんだな」
「ぼくも1年前まではみんなと同じ、黄色いのを持ってましたよ」
「そうなの? じゃあなんで?」
「実はぼく、黄色い水入れにトラウマがあって――」
「ちょっと待て、ちょっと待て。これから図工の時間だろうが……」
そう言うと進介は、去年経験したある話を始めた――
木曜日の1、2時間目が5年3組の図工の時間だったのは以前に述べたかもしれ
ない。
その時間は5年3組の生徒にとって、緊張が極限にまで高まる時でもあった。
その原因はもちろん、担任の赤瀬にあった。
赤瀬は生徒の忘れ物に厳しかった。
将来、大人になり責任ある立場になった時に忘れ物で会社に大きな損害を与える
かもしれない。そうならないためにも、今から忘れ物をしないようにしっかりと習
慣付けておかなければならない……これが赤瀬の言い分だった。
さらに赤瀬は、図工の忘れ物に関してはもう一段階上の怒り方をした。
理由は、「図工の先生に迷惑をかけるのは5年3組の担任の責任だから」だとい
う。
進介はこれの意味が全く分からなかった。
図工の先生に迷惑がかかったのならば図工の先生が怒ればいいんじゃないのか、
なぜ赤瀬先生が怒るのか?
でもそのことを口に出すことは決してなかった。
なぜなら赤瀬先生が恐かったから。
この教室はとても意見を言えるような雰囲気ではなかった。
5年3組の生徒たちは恐怖で支配されていた。
ある日曜日、進介は母親と駅前のスーパーに買い物に行っていた。
母親が手芸売り場で目当ての物を探している時、進介は文具売り場で時間を潰し
ていた。
値の張るシャーペンやボールペンを見た進介は、試し書きをして遊んでいた。
ぶらぶらと文具を見て回り、次は100均ショップへでも行こうかなと思った瞬
間、絵の具コーナーで見慣れない箱が目に入った。
どうしてそれが気になったのか、あとで考えてみても分からない。
それはまさしく、「運命の出会い」であった。
進介が手に取ったそれは、「絵の具用の水入れ」であった。
商品説明に、「絵の具バッグに収納できる」と書いてある。
(これはぼくのための商品だ)
進介の胸が高鳴った。
(これさえあれば木曜日の朝の憂鬱の種が1つ減る……)
進介は母親に頼み込み、それを購入してもらった。
本来であれば、黄色い水入れがまだ使えるのだからそれは不必要な無駄遣いのは
ずだった。
しかし、進介のあまりの熱のこもったお願いに母は購入を許したのだった。
それ以来、「最も玄関に忘れやすい物ナンバー1」であった水入れが進介にとっ
ては、「絶対に忘れない物ナンバー1」へと生まれ変わったのだ。
「ぼくにとってこの収納型水入れがどんなにも大切なものか、ともちゃん先生には
分からないでしょう」
「分からんよ。お前だって分かってもらおうとしてないだろ」
「……図工の忘れ物と言えば――」
「もうやめろ! さっさと図工室へ行け!」
智子は急いで進介の話題を食い止めた。
普段は無口なくせに、たまに突然変なスイッチが入る進介にてこずる智子なので
あった。




