48 脅し
「あっ、鷹だ!」
授業中、駿が叫んだ。
智子と生徒たちが一斉に窓の外を見ると、1羽の鷹が大空を滑空しているのが目
に入った。
「あれは多分、六甲山から下りてきたんだろうな」
「明石の方の山かも」
「淡路島の可能性はない?」
六甲山から来たという智子の考えに複数の生徒から意見が出た。
「なるほどなあ。その可能性もあるのか。あとでネットで調べてみようか。じゃあ
授業に戻るぞ――」
そう言って智子は生徒たちを見た。全員が窓の外を見る中、1人だけ真顔で斜め
下を見る生徒がいた。高平進介だ。
(体調でも悪いのか?)
その後、進介のことを気に掛けながら智子は算数の授業を終えた。
「おい、高平」
「はい?」
「トイレか保健室に行かなくてもいいのか」
「えっ、なんでですか?」
「お前、さっきみんなが外の鷹を見てた時、1人だけ俯いてただろ。体調が悪いん
じゃないのか?」
「……よそ見ってしてもいいんですか?」
進介は遠慮がちに聞いた。
「は? まあ、本当は授業中は駄目なんだけど、でもたまにはいいんじゃないの?
ちょっとくらいだし」
「でもぼく5年生の時によそ見をしていて赤瀬先生に怒られたことがあって――」
やばい、これはこいつのトラウマの話を聞かされる流れだ……と智子は思ったが
時すでに遅かった。
「それがトラウマになってるんです……」
そう言うと進介は今度は遠慮なく、1年前に赤瀬から怒られた話をし始めた。
それは4月のことだった。
新しい年度、新しいクラスでの初めての朝礼が月曜日に行われた。
全校生徒は背の順で並んでおり、進介の在籍していた5年3組は東の端が所定の
位置となった。
生徒たちが校庭に並び、校長先生が朝礼台に上がるまでの数分間、周りにいるク
ラスメイトとおしゃべりをする自由時間がある。そのおしゃべりを担任教師たちも
特に注意をすることなく黙認していた。
進介は無口な生徒である。他の生徒から話しかけられなければ自分から口を開
くことはまずない。
この日の進介も誰ともしゃべることはなく、なんとなく辺りを見回していた。
斜め後ろにある正門を越えた向こうにある建物の壁の色が何色なのかを身体を捻
らせて観察していたその時、進介は自分を後方から睨みつける気配を感じた。
進介よりも背の高い数人が、数秒前まではおしゃべりをしていたはずなのに、全
員直立不動で前方を見ている。
気配の主が担任の赤瀬先生であることは明らかであった。
進介にとって赤瀬は人生で初めての男の担任教師であり、この頃の1番の不安の
種であった。
「自分は今、その赤瀬先生に睨まれている」
そう思うと進介はすぐに体を戻すことができなかった。結局進介はその後5秒間
の現実逃避を行い、姿勢を元に戻した。
進介のことを睨んでいたのは、やはり赤瀬であった。進介は必死で朝礼台の方を
見ようと勤めたが、できなかった。自分を睨む赤瀬の顔が怖すぎて、ついそちらを
見てしまうのだ。
進介と目を合わせた赤瀬は最大限の迫力の籠った声で言った。
「どこ見てるんだ」
そこまで話すと進介は口を閉ざした。どうやら話は終わったらしい。
智子は反応に困った。赤瀬の表情や態度、「どこ見てるんだ」の言い方などは話
を聞いただけでは分からない。それらによっては問題があったと言えるかもしれな
いが、実際はどうなのだろうか。
「めっちゃ怖かったんです……」
「そうか」
「ともちゃん先生ならこういう場合、なんて言いますか?」
「ん? そうだなあ、『校長先生がもうすぐ話を始めるから、ちゃんと前を向いて
待っていなさい』とかかなあ」
「ですよね! 普通そう言いますよね!」
「えっ……。うん」
智子は自分のどの発言が進介の心を打ったのかが分からなかった。しかし進介の
テンションは上がり、本人は理解が得られたと思い込んでいるようだ。
「悪いけど、説明してくれない? よく分かんないんだけど」
「普通はこういう場合、先生は生徒に注意をするものなんです」
「うん」
「でも赤瀬先生は、『どこ見てるんだ』って分かりきったことを怖い顔で聞いてき
たんです」
「ん?」
「どこ見てたって、後ろ見てたんですよ」
「うん」
「なんでそんな分かりきってることを聞いてくるんですか? それって脅しじゃな
いですか!」
「脅しではないだろ……」
智子はここまで聞いてようやく進介の発言の意図を理解し始めた気がした。彼が
教師に望むことは、「常に建設的であってほしい」ということなのだろう。
「でもな、後ろを向いてたお前だって悪いだろ?」
「それはそうなんですけど、赤瀬先生の顔めっちゃ怖かったんです」
「自分が悪いことをしたのを棚に上げちゃあ駄目だぞ」
「それはそうですけど、やったことに対して罰が大き過ぎませんか?」
「お前、罰なんて受けたか?」
「顔がめっちゃ怖かった……」
「……」
それは罰じゃなくてお前の赤瀬先生に対する悪口だろ……。そう思ったがそんな
ことを言っても建設的ではないと思い、そっと胸の中にしまい込む智子なのであっ
た。