46 被害者の弟
「ともちゃん先生って渡部先生のことを尊敬してるんですか?」
教室の机で丸つけをしていた智子に愛梨は聞いた。
「んー、そうだな。渡部先生は私の教師人生の中で最も影響を受けた先生の1人だ
な」
「へー、そうなんだあ。その渡部先生がごはんに牛乳をかけるって聞いた時、とも
ちゃん先生、本気でショックを受けてたもんね」
「あれはビビったよ。でもよく考えたら、そんなたいしたことでもないような気も
してきたな。人の好みなんてそれぞれだからな」
以前、渡部が給食のごはんに牛乳をかけると聞いた時、智子はあまりのショック
に泣き出してしまったことがあった。
「ともちゃん先生は渡部先生のどんなところを尊敬してるんですか?」
「筋が通っているところだ。最近は保護者の力が強くなってるから厳しい指導はし
にくいんだよ。そのくせ、なんかあったら学校の指導力不足だって騒ぎ立てるんだ
よな。でも、渡部先生は違ったぞ。悪さをした生徒にはしっかりと指導をしていた
からな」
「でも、他の先生も指導はちゃんとしてると思うけどなあ」
「もちろん指導はする。そうじゃなくて、渡部先生のそれはもっとこう芯を食って
るんだよ」
「ふーん……」
愛梨はよく分からないという顔をする。
「私が渡部先生の話で好きなのは、自分のことをババアと言った生徒をプールに投
げ入れたやつだな」
「えー……。それって指導かなあ?」
「指導だろ。間違いを犯した生徒にちゃんと分からせるのは必要な事だろ?」
「うーん……」
愛梨は答えに詰まってしまった。
「渡部先生がプールの授業中に生徒をプールに投げ込んだ話なんですけど――」
話に割り込んできたのは進介であった。
「その投げ込まれた男子生徒っていうのがぼくのお兄ちゃんなんです」
「そうなの!?」
智子は自分の好きな話の関係者の家族が意外と近くにいたことに驚いた。
「高平のお兄さんて今何才?」
「ぼくより4つ上なので、高1です」
「え? 高1?」
智子は戸惑った顔をする。
「じゃあ、渡部先生にプールに放り込まれたのはいつなの?」
「確か小5の時なので……5年前かな?」
「5年前!? 渡部先生が60代の時じゃん!!」
智子は驚愕した。渡部の現役時代、忘年会で酔っぱらった本人からこの話を聞い
ていたが、智子はそれを渡部の若い頃の話だと思っていた。まさかの60を過ぎて
からの武勇伝という事実に智子は震えた。
「渡部先生すげー……。渡部先生すげー!!」
興奮する智子に進介は当惑した。
「すごいですか?」
「どう考えてもすげーだろ! 60代で11才を放り投げただけでも注目に値する
だろ!」
「それは分かりませんけど……」
「覚えてるか? 渡部先生って恰幅良かったよな?」
「はい。1年の時の担任の先生なのでよく覚えてます。どしっとした体形でした」
「あれってやっぱり、お相撲さんなんだよ!」
「ぼくは違うと思いますけど……」
「違わねえよ! 渡部先生の前世はお相撲さんだったんだよ!」
この人はなにを言ってるんだろうと進介は思った。
「ひょいっと投げたんだろ? お前の兄ちゃん、ひょいっと投げられたんだろ?」
「見てないんで知らないです」
「もっと詳しく聞いてこいよ! なにやってんだよ!」
「お兄ちゃん、笑いながら話してました」
「そうかー。やっぱ教育って楽しくあるべきなんだよな。『良薬口に苦し』ってい
う言葉を日本人は拡大解釈しすぎなんだよ。な?」
智子は上機嫌で進介に問い掛けた。
一方の進介は「な?」と言われても上手い切り返しが思い付かず、黙り込んでし
まうのであった。




