44 1年生を泣かす
「そこの席って誰だ? 4時間目まではいたよな?」
5時間目の授業の始め、智子は2つの空席があることに気が付いた。
「こっちが健太であっちが昌巳です」
朝陽が2つの空席を指差しながら言った。
「あの2人がいないのか。どうりで教室がすっきりしてると思った」
智子の悪口に生徒たちから笑いが起きる。
「トイレにでも行ってるのかもしれないし、先に授業始めるか――」
智子が授業を始めようとした時、扉をノックする音がした。
智子が扉を開けると、1年2組の担任教師である山田華子が立っていた。
「湊川先生、ちょっといいですか」
「どうしました?」
小声で話す山田に手招きされ廊下に出ると、少し離れた場所にいる不機嫌な様子
の健太と昌巳の姿が目に入った。
「この2人って先生のクラスですよね」
「はい。そうですが、2人がなにかしましたか」
「ちょっとした喧嘩なんですけど――」
「この2人が喧嘩!?」
智子は思わず大きな声を出してしまった。
健太と昌巳といえばクラスの中でも特に相性のいい2人だと誰もが思っていた。
その2人が喧嘩とは……。
「そうですか。ちょっと意外だったもので……。とりあえず、あとは私が引き受け
ます。ありがとうございました」
「それが実は当事者がもう1人いるんです」
「そうなんですか? その子は今は?」
「職員室で担任の先生に見てもらってます」
智子は嫌な予感がした。1年生の担任の山田がここに来たということは……。
「もしかして、その子って1年生ですか?」
「はい」
「お前らなにやってんだよ! 1年生を巻き込むなんて、6年生にもなって恥ずか
しくないのかよ!」
智子は無性に腹が立った。6年生にもなる2人が、先月入学してきたばかりの新
入生を喧嘩に巻き込んだことが許せなかった。
「実はその1年生っていうのが、そっちの子の弟さんなんです」
「え? 田中の弟!?」
智子は拍子抜けがする思いだった。
(こいつ、学校で兄弟喧嘩をしたのか?)
「確か、弟がいるんだったな……」
「1年1組の田中一太くんです」
「次男なのに一太っていうの?」
「別にいいだろ」
健太は不貞腐れたように答えた。
「まあ、それは確かに。でもなんで喧嘩なんかしたんだよ。まさか怪我させたりな
んかしてないだろうな」
「してねえよ」
「兄弟喧嘩か……。こういう場合って親御さんに報告するだけじゃあ駄目なんです
かね?」
「いえそれが、喧嘩したのは一太くんとこっちの生徒なんです」
「松田が!?」
智子は予想外の展開に軽くパニックに陥った。
昌巳といえばいつも笑顔で、やられてもやり返さないような性格だと智子は思っ
ていたのだ。それが1年生と喧嘩をした?
「確認ですけど、松田と田中の弟が喧嘩をしたんですね?」
「はい。それで一太くんが泣いてしまいまして、今は職員室にいます。私も戻りま
すのであとはよろしくお願いします」
山田はそう言って職員室へ戻っていった。
智子は教室にいる生徒たちに自習を命じ、自らは廊下で健太と昌巳の話を聞くこ
とにした。
「松田、喧嘩の原因はなんだ」
「健太と一太が俺のことを馬鹿にしたからです」
「馬鹿にはしてないけど……」
「したね! 俺のことちびって言ったね!」
昌巳は身長が男子の中では学年一低く、本人はそれを太っていること以上に気に
していた。
「どっちなんだよ。田中、言ったのか?」
「言ってはいません」
「言っただろ! あんなの言ったのと同じだ!」
昌巳はかなりの興奮状態である。
「田中、言ってはいないっていうのはどういうことだ? それらしいことを間接的
に伝えたってことか?」
「昌巳の身長が一太とほぼ同じだったんです」
「ん?」
「昌巳の身長が弟の一太と同じに見えたので、2人を背中合わせにして比べたら、
一太の方がちょっとだけ高かったんです」
「そうかあ……。それで、そのことを弟と2人して笑ったのか?」
「はい……」
健太の話により喧嘩の原因は判明した。1年生に身長で負けた昌巳のプライドが
傷付いたのだ。
智子も最近生徒たちから見下ろされる立場になり、ちびの気持ちはよく分かる。
しかしだからといって1年生を泣かすのはやりすぎだ。
「松田の気持ちは分かるよ。でもな、相手は1年生だからな。お前の方がちょっと
は大人になってやれ」
「健太は6年だろ」
「そうだ。田中はちゃんと松田に謝れ」
「でもこいつ、弟を泣かしてるから」
健太は反論した。
「確かにそうだ。でもな、『それはそれ、これはこれ』なんだよ。つまりはお互い
に悪い部分があったっていうことだ」
健太と昌巳は納得がいかない顔をする。
「松田、田中の弟には指一本触れてないんだな?」
「はい」
「暴力を振るわずに我慢したのは褒めてやる。暴力は最悪だからな」
「でもこいつ、一太に酷いことを言いましたよ」
「弟が泣くようなことか。なんて言ったんだ?」
昌巳は智子から目を逸らし黙り込んだ。
そんな昌巳に変わって健太が口を開いた。
「『調子に乗ってるとお前の家族全員ボスみたいに轢き殺してやるからな』って言
いました」
ボスとは、先日田中の家の前で轢死したヒキガエルのことである。
「松田お前……馬鹿なのか?」
「馬鹿じゃありません」
「馬鹿だよ! そんな怖いこと言ったら子供が泣くのは当然だろうが!」
「俺も子供です」
「うるせえよ! 1年生はもっと子供なんだよ! お前ら一生そこで立ってろ!」
そう言うと智子は教室に入っていった。
教室では怒鳴り声を聞いた生徒たちが智子の顔色を窺っている。
廊下に残された2人はどうしていいか分からず、気まずい空気の中なんとなく仲
直りに成功したのであった。