42 あいつのでかい尻
「そう言えば斎藤先生って、前の図工の先生と仲が悪かったですよね」
凛の言葉に智子は目を逸らした。
「ともちゃん先生も知ってますよね、前の図工の先生。名前は……なんて言ったっ
け?」
「鳥谷先生だろ?」
「そうそう、鳥谷先生だ。ソバージュヘアですっごい色白で、いかにも芸術肌って
いう雰囲気が好きだったなあ」
凛は鳥谷あゆみのことを思い出し懐かしそうに語った。
「でもなんで去年の途中で交代しちゃったんだろう。図工の先生ってあんな変なタ
イミングで辞めちゃうものなのかなあ」
「凛ちゃんて去年2組だっけ?」
結衣は凛に聞いた。
「うん、そうだけど」
「2組は斎藤先生と鳥谷先生の話、聞いてないんだ」
「え? 斎藤先生? なんかあったの?」
「ともちゃん先生は知ってるよね?」
「ああ、鳥谷先生が辞めたのはあれが原因だったからな……」
智子はいかにも気の強そうな斎藤朱音の顔を思い出していた。
「なに? なにがあったの? 聞かせてよ」
「私は5年3組だったから、あくまでも聞いた話なんだけど――」
凛にせがまれ、結衣は半年前の出来事について話し始めた。
5年3組の図工の時間は木曜日の1、2時間目だった。
まずはクラスで朝の会を行い、その後生徒たちは図工室へと移動する。
2学期のある雨の日の朝、その日は担任の赤瀬がしばらく教室にやって来なかっ
た。生徒たちが壁に掛けられている時計に注目していると、息を切らせた赤瀬が教
室に入ってきた。
生徒たちは赤瀬が朝の会を素早く終わらせ、すぐに自分たちを図工室へ行かせて
くれると思っていた。
しかし朝の会が終わるより前に教室の扉がノックされ、扉を開けた赤瀬と教頭が
話をし、「今週の図工の授業は中止」であると告げられた。
生徒たちは、「図工の先生が欠勤したのだ」と思ったが、実際はそうではなかっ
た。昼休みに驚くべき情報が1組の生徒からもたらされたのだ。
「1組の斎藤先生が図工の鳥谷先生を泣かした」
泣かしたのが生徒ではなく、泣かされたのも生徒ではない。その両方が教師であ
るという事実に3組の全生徒が震えた。
問題は喧嘩の原因とその内容である。
情報によると喧嘩の原因は、「鳥谷先生が階段を踏み外したのを斎藤先生が笑っ
た」から。喧嘩の内容は、「斎藤先生が馬鹿にしたように笑い続け、鳥谷先生は一
切反論をせずに号泣した」である。喧嘩というよりも一方的ないじめだ。
職員室のある東校舎と北校舎の間には渡り廊下があり、やや東校舎寄りの場所に
2段だけの階段があった。
鳥谷はその上り階段を踏み外し、前のめりにこけてしまった。幸い手をついたの
で怪我はなかったのだが、背後にいた斎藤はそれを見逃さなかった。
鳥谷が躓いた瞬間、斎藤はけたたましく笑った。
5年生の教室は3階で、さらに窓が閉められていたため、その笑い声が届くこと
はなかったが、後に斎藤が1組の教室で生徒たちに自慢した話によると、「私の人
生でこんなに笑った記憶はない」というほどのものだったらしい。
3組の生徒たちはその話にどん引きであったが、1組の生徒たち、特に男子生徒
は自らが戦で殊勲を挙げたかのような興奮ぶりであった。
「私が当時聞いた話はこんな感じです」
そう言って結衣は話を終えた。
凛は初めて聞くその話に唖然とし、言葉が出てこなかった。
「斎藤先生、クラスで生徒たちに自慢したの?」
智子は結衣に聞いた。
「したって聞いてます」
「そうなんだ……」
「『こけた瞬間、あいつのでかい尻が目の前にあった』って言ったそうです」
「あいつのでかい尻……」
智子は精神年齢が6才になってから口が悪くなったと母親から再三注意を受けて
いた。斎藤先生の話を自分への戒めにしなくてはならない……そう思う智子なので
あった。