38 巨大な蜘蛛とザリガニ
日が西に沈み始めている。
14人は小川の前にいた。
「光井、今何時だ?」
「あと2分で4時半です。バス停に向かう予定の時間ですね」
智子に問われた颯介がスマホを見ながら答えた。
「どうしようか、あいつ。すごいけどな……」
智子は独り言のように呟いた。
目の前には幅3メートル、深さ10センチほどの綺麗な小川が流れている。その
向こうには高さ50センチほどの石垣が積まれており、その上には塀が建てられて
いる。
塀の向こうには大人の身長ほどの木が植えられており、枝の先が塀を越え小川の
上に掛かり、そこにだけ影を作っている。
14人の視線はその影の中にいるザリガニに集中していた。
智子たちに背を向け、じっとしているそのザリガニは異彩を放っていた。
14人は、3時間あまりの時間を使い夢中でカエルやザリガニ、フナを追った。
カエルは大小さまざまなものを捕獲したが、ザリガニの大きさにはさほどの違いは
なく、どれも10センチ程度であった。
しかし今14人の視線の先にいるそれは、他とはわけが違った。明らかに巨大、
この辺り一帯を統べるものであると言われても誰もが納得するような圧倒的な存
在感、光り輝くオーラがその背中からは放たれていた。
「欲しいよなあ。でもなあ……」
智子たちは巨大ザリガニを捕ることを躊躇っていた。その理由は2つ。
1つ目は下の小川。持っている網の柄の長さは1メートルほどしかなく、およそ
3メートル先にいるザリガニを捕ろうとすると小川の中に入らなければならない。
2つ目は上の蜘蛛の巣。塀から伸びてきている枝に蜘蛛の巣ができているのだが
その巣の中央には智子たちが今までの人生で見たことのないような巨大なジョロウ
グモが構えている。
「なんであの蜘蛛、あんなに大きいの?」
巨大蜘蛛を見ながら愛梨は言った。
「田舎は虫が多いだろ。それは捕食者にとっては餌が多いっていうことなんだ。だ
から身体があんなに大きくなるんだよ」
智子の言葉に嫌悪感を露わにしていた生徒たちも頷いた。
「あっちのザリガニは子供かなあ」
小川には見える範囲で2匹のザリガニがいた。涼香が言ったのは巨大なザリガニ
から2メートルほど下流にいるもう1匹のことだ。
「いや、あっちのも小さくはないぞ。上のが大きすぎるから比較してそう見えるだ
けで、下のも10センチはあるだろ」
「俺たちが捕ってるのと同じくらい……確かにそうかも」
「ていうことは、上のザリガニどんだけでかいんだよ!」
生徒たちは改めて巨大ザリガニで盛り上がる。
そんな中、智子が決断を下した。
「よし、私が行く」
「えっ……ともちゃん先生、行くの?」
生徒たちはどよめいた。智子にそんな勇気があるとは思えなかった。
「ともちゃん先生、無理しなくていいよ?」
「いや、行く」
「ともちゃん先生、足濡れるよ?」
「大丈夫、行く」
「ともちゃん先生、上に大きな蜘蛛がいるよ?」
「……行く」
智子の声がどんどん頼りなくなっていくのを生徒たちは感じた。その口調からは
蜘蛛に対する恐怖心がありありと窺えた。
「ともちゃん先生、本当に無理しなくてもいいからね?」
「保護者として、お前たちの靴を濡らすわけにはいかない」
智子はそう言うと前に進み、水際に立った。
智子はじっと蜘蛛の巣を見上げ、立ち尽くす。
「ともちゃん先生……」
「……」
智子は水際で立ち尽くしたまま動かなくなってしまった。
「ともちゃん先生?」
60秒ほど蜘蛛の巣を見続けた智子は、ロボットのようなぎこちなさで、ゆっく
りと振り返った。
「やっぱり、蜘蛛の巣、怖い……」
智子は目に涙を浮かべ、青い顔をしている。
「もういいよ! もういいから戻ってきて!」
真美に腕を掴まれた半泣きの智子は、生徒たちの元へと引き戻されたのだった。