33 私は辞書ではありません
6年1組では毎朝、朝の会の前に漢字の小テストを行っている。
問題は全部で10問、どんな漢字が出るかは前日に告知がされている。
真面目な生徒たちは家でスマホや辞書を使い予習をしてから登校しているが、そ
うではない生徒たちは登校してから慌てることとなる。
始業を告げるチャイムが鳴ってから智子が来てテストが始まるまでの数分間、教
室では生徒たちのちょっとした駆け引きが行われる。
「みーちゃん、2問目の漢字って分かる?」
「それはね、こう。私は5問目と9問目が分からないんだけど」
「9問目はこうだと思うけど、5問目は私も分からない……」
既に着席しているため、近くにいる仲の良い友達と協力して満点を目指すことに
なるのだが、残念ながら周りの誰も正解を知らない場合がある。そんな時は近くの
席の特別親しいわけではない生徒が頼られることになる。
進介はこの漢字の小テストが得意だった。毎日のように満点を取っていた。しか
しだからといって、漢字が得意なわけではなかった。小心者で真面目な彼は、毎晩
翌朝のテストの予習をどんなに疲れていても欠かさずに行っていた。だから、他の
テストの点数はともかく、朝の漢字テストだけは高得点を連発していた。
予習を欠かさず気が小さいため頼まれたら断れない、そんな進介は周りの生徒た
ちにとってみればありがたい存在であったはずだ。
しかし、進介が頼られたことはただの1度もなかった。
進介は卒業までのおよそあと1年間、1度たりとも誰かに頼られることなく小学
校生活を終えることになる。
なぜ彼は周りから頼りにされないのか、その答は実に簡単である。進介は、同級
生から馬鹿だと思われていたのだ。
アレルギー性鼻炎のため鼻呼吸ができず1年中口を開け、体力がないためすぐに
集中力を切らし、空想にふけるのが好きなため他人の話を聞かずにすぐにボーっと
してしまう。進介が他人から馬鹿に見られる理由は十分すぎるほどにあった。
進介のように答を知っていても全く見向きもされない生徒がいる一方、毎日のよ
うに頼りにされる生徒もいる。その代表格が、本間美織であった。
美織は、ピアノが弾けて人前では常に理性的であるという、まさしく小学生がイ
メージする「知性」が服を着て歩いているような女の子であった。
そうなると当然、周りの女子たちからは標的にされることになる。
「美織ちゃん、6問目と7問目ってどんな漢字なのかなあ」
美織は分からない漢字を周りの女子から聞かれるたび、きっぱりとこう言った。
「私はあなたの辞書ではありません」
その毅然とした態度と口調に最初は皆、茫然とするものの、意味が分かると一様
に下を向き黙ってしまう。
砕けた言葉で言うと「ドン引き」だった。
中には人生で初めて言われた皮肉がこれだったという生徒もいたかもしれない。
「本間さんはどうして漢字くらい気軽に教えてくれないんだろう……」という空気
とともに、女子たちは敗走していくのだった。
結局、美織が頼られたのは1学期のうちだけで、秋以降は誰も彼女に助けを求め
ることはしなくなった。
ただし、それが原因で美織が女子たちから仲間外れにされるということはなく、
美織はそんな態度すらも許されるようなキャラクターであると周りから認知をされ
ていた。
一方、隣の席の進介は美織と女子たちのそんな遣り取りを毎朝のように聞いてい
た。その遣り取りを「面白い」と思うのが半分、「本間は言いたいことがはっきり
言えて偉いな」と思うのが半分だった。
決して否定的な気持ちにはならなかったが、「この子は頭の良さと引き換えに性
格の良さを悪魔に売り渡したのだろうなあ」と感慨にふけっていた。
気が弱く相手の顔色ばかり窺い自己主張が全くできない進介にとって、そんな美
織はある意味憧れの存在ともいえた。
女子も男子も美織に対して多少の面倒臭さは感じつつも、特別扱いなどはするこ
となく普通に接していた。
しかし、このクラスには例外的人物がいる。
「お前さあ、そんなこと言ってるとそのうち嫌われるぞ?」
声の主はもちろん、智子である。
「漢字くらい教えてやれよ。減るもんでもあるまいに」
「だったら、ともちゃん先生が教えてあげればいいじゃないですか」
「いやっ、それはおかしいだろ。私は問題を出す側なんだぞ」
「でも、教えるのが仕事ですよね?」
「試験直前には教えんだろ。前日までに問題自体は配ってるんだし」
「私は教えるためにこの学校に通ってるんではありません」
美織はどこ吹く風である。
「私は生徒とは友達じゃないけど、お前は違うだろ? これからもしばらく付き合
いは続くだろ?」
「どうせ大人になったら会うこともないですよ」
「だとしても、中学はまだ一緒だろうが」
「違いますよ? 私、私立を受験しますんで」
「えっ、そうなの?」
「はい。両親と決めて、既に準備も始めてます」
「そうなのか……」
美織が中学受験することを、智子はこの時初めて知った。
「じゃあ本間は、クラスメイトと仲良くしなくてもいいな」
智子のこの発言に、6年1組の空気が凍てついた。
「私も中学卒業以来、幼馴染とは誰とも交流ないもんなあ。本間はあの頃の私より
も知能が高そうだから、きっと私よりも幼馴染とは接点を持たない人生を送るんだ
ろう。幼馴染なんて所詮はたまたま近くに生まれただけのモブキャラだしな」
さらっと酷いことを言う智子に生徒たちは反論したかった。自分たちはそんな軽
薄な関係ではないと言いたかった。しかし48年の人生経験のある智子の言葉に、
生徒たちは返す言葉を持たないのであった……。