32 えずく智子
「今日の授業は『消化と吸収』だ。みんな朝食ではごはんかパンを食べるという者
が多いと思うが、その主成分であるデンプンは唾液と混ざり消化され、ブドウ糖に
なって初めてエネルギーとなる。つまり、ごはんもパンもよく噛んで唾液と混ぜな
いと駄目だということだ」
唾液という単語を聞いただけで不快感を覚え、既に嫌な顔をしている生徒がちら
ほら確認できる。
「まずは私が唾液の混ざっていないごはんにヨウ素液を垂らすから見てくれ」
智子が教卓の上のごはんにヨウ素液を垂らす。すると、ごはんはすぐさま青紫色
に変化した。
「次は唾液の混ざったごはんにヨウ素液を垂らすぞ。みんな、ごはんの入ったアル
ミカップは受け取ったか。1人ひとつずつだぞ。そのごはんを全て口に含んで咀嚼
後、カップに吐き出してくれ」
生徒たちから「えっ」という声が上がった。
「飲み込むなよー。咀嚼っていうのは食べ物を口の中で噛むっていうことだ。そし
て充分に唾液を混ぜて、カップに戻してくれ」
女子を中心とした生徒たちから今度は「えー」という声が上がる。
「えーじゃない。これは真面目な授業なんだよ。気持ち悪がるな。ヨウ素液はそう
だな……中井、お前が垂らしていってくれ」
「俺?」
指名をされた朝陽は戸惑った。当然ながら朝陽にとってはこの実験は今日初めて
行うのだから、なにが正解なのかもよく分からない。
(そんな状態でいきなり任されても……)
朝陽はヨウ素液の入ったスポイトの受け取りを拒否した。
「ほれ。早くしろ。適当な量をかければいいだけだ」
「なんでともちゃん先生がやらないんですか?」
「私はいいんだよ」
「なんでですか?」
「気持ち悪いからだよ!」
「えー……」
智子の正直な言葉に朝陽は言葉を失った。
「授業だから仕方なくやるけど、他人の唾液なんか本当は1秒たりとも見たくなん
かないんだよ!」
教室内が静まり返る。普段は智子のことをちゃんと先生として接している生徒た
ちもこういう時は「やっぱり精神年齢は6才児並みなんだなあ」と思ってしまう。
「私と中井くんとで手分けしてやりましょうか」
真美は立ち上がり、言った。
「うん。市川か。さすが学級委員長だな。そうしてくれ。中井もちょっとは見習え
よ。こういうとこだぞ」
智子は悪びれる様子もなくスポイトを真美に渡した。
「今言った手順でやるように。分からないことがあったら教科書に大体のことは書
いてあるからそれを見て、それでも分からない時は市川か中井に聞くように。気持
ち悪いから私には聞いてくるなよ」
智子はそう言うと教室の端に行き、そっぽを向いてしまった。
「完全に背中向けてるんだけど……」
朝陽は信じられないものを見たというような顔で呟いた。
「それではみなさん、アルミカップの中のごはんを口に含んで咀嚼後、カップに戻
してください。私が順番にヨウ素液をかけていきます。教科書によると、唾液が混
ざっていると青紫色にならずに透明になるのだそうです」
真美の合図で生徒たちはごはんを口に含んだ。やんちゃな男子は平気な顔で咀嚼
後のごはんをカップに戻す。多くの女子やおとなしめの男子は少し口に含んだ程度
でごはんを戻した。
真美と朝陽は手分けをして女子と男子のごはんにヨウ素液をかけていった。
唾液にも個人差がある上に咀嚼が不十分なこともあり、多くの生徒の実験結果が
教科書通りにはいかなかった。
「ともちゃん先生、なんか上手くいかないんですけど――」
真美が智子の方を見ると、智子は両手で耳を塞ぎ、小さな声で「わーわー」と言
い続けていた。
「ともちゃん先生……」
真美の声は智子には全く届かない。仕方なく真美は智子に近付き肩を叩いた。
「うわっ」
驚き、振り返る智子。
「ともちゃん先生、結果を見て欲しいんですけど……」
「終わった?」
「いえ、上手くいってない気がします。確認してください」
「えー、嫌だよう」
智子は露骨に嫌な顔をした。
「先生に確認してもらわないと、私たちには判断できないんですけど……」
「大体透明っぽくなっただろ?」
「なっていない子の方が多いです」
「なってる奴もいるんだな? じゃあ、それが正解だ。みんなでシェアしろ」
「シェアって……」
生徒たちは、意地でも自分たちの実験に参加しない智子に若干ひいている。
「いいのか? じゃあ、全員アルミカップの中のごはんを流しに捨ててこい。アル
ミカップ自体はそれ用の袋がそこにあるからそれに集めて、クラスのゴミ箱に捨て
てくれ。責任者は市川だ」
どんどん話を進める智子。そんな智子に、健太は自分のアルミカップを持って近
付いた。
「ともちゃん先生、俺のごはん全然色が無いんだけど――」
「近付くな!」
「え?」
「それ以上は近付くなよ! 嫌なんだからな!」
智子は今にも泣き出しそうな顔で叫んだ。
「中井! そいつのごはんにもヨウ素液はちゃんとかけたんだな!」
「はい、かけました」
「じゃあ、それでいいんだよ! 私に見せようとするな!」
「俺のごはん、教科書と同じくらい透明ですけど……」
健太はゆっくりと智子に近付く。
「色が無いっていうことは、ちゃんと唾液が混じってるってことなんだよ! もう
それ以上近付いてくるなよ! もういいだろうが! こっち来んな! おえー、お
えー」
智子は、えずきながら泣き出した。
真美が声をかける。
「ともちゃん先生、教科書には『唾液は栄養の吸収を助けるという重要な役割があ
り、決して汚いものではない』って書いてありますけど……」
「そうだよー。唾液は我々にとって大切な分泌液なんだよー。お前らちゃんと勉強
しろよな」
健太は納得がいかないという顔で智子の話を聞いている。
「だったら俺のも汚くないよな」
「私にとっては汚いだろうが! なにが嬉しくてお前が口から出したごはんなんか
間近に見なくちゃならないんだよ! 気持ち悪いんだよ! あっち行け!」
健太は智子の「気持ち悪い」という言葉が引っ掛かった。智子は唾液の混じった
ごはんのことを言ったのだが、成績の良くない健太は自分のことが気持ち悪いと言
われたのだと勘違いをしてしまった。
「俺って気持ち悪いの?」
相撲取りのように脂肪でパンパンになった健太の顔が少しだけ曇った。他人には
分かりにくいが、健太なりに落ち込んでいるようだ。
それを見て、真美が優しく声をかける。
「ともちゃん先生は他人の唾液に抵抗があるんですよね? 田中くんを否定したわ
けではないですよね?」
「うぉえー、うぉえー、うっうっ、うおえー……」
智子は教室の隅っこにちょこんと座り、泣きながらえずいている。
こうなるともう誰にも手が付けられない。生徒たちはどうしていいか分からず、
お互い顔を見合わせている。
そうしているうちに、授業の終了を告げるチャイムが校内に鳴り響いた。
全校の中で6年1組の生徒だけが、チャイムの音と担任のえずき声を同時に聞か
されるのであった。




