30 ともちゃん先生にはできない
「ただいま!」
6時間目も残り10分になろうという時に智子は教室に戻ってきた。
「いやー、校長はやはり話の分かる男だったよ」
智子は上機嫌である。クラスの中で涼香だけはその理由を理解していた。
「ともちゃん先生、なんで自習だったの? 6時間目ももう終わりそうだけど」
朝陽の質問に智子は答える。
「校長室で大事な話をしてきたからだ」
「授業よりも大事なことですか?」
「当たり前だ。というか、小学校の授業なんて別にやらなくてもいいからな。教科
書も最後までやらなくても怒られないし。やりたきゃお前らが勝手に家でやればい
いんだ」
「えー……」
黙る朝陽、次は蓮が質問をする。
「校長室ではどんな話をしてきたんですか?」
「聞きたいか? じゃあ、今回は特別に教えてやろう。それは……放課後の話だ!
な? 浜本」
智子は嬉しそうな顔で涼香を見る。涼香はクラスメイトの注目を集め、少し照れ
たように微笑んだ。
「なんと、浜本がテニスボールにゴムが付いたやつを手に入れたぞ!」
智子はどうだとばかりに涼香が手に入れたテニスボールの話をした。
しかし智子の高いテンションとは裏腹に、教室内は一切盛り上がらなかった。
「え? なんで?」
智子は生徒たちのノーリアクションに驚いた。全く理解ができなかった。もっと
盛り上がると思っていた。
「どうしたの? なんで? テニスボールにゴムが付いたやつだぞ? みんな嬉し
くないの?」
「1人でテニスの練習をする時に使うやつですよね? それがなにか?」
真美は冷静に尋ねた。
「みんな、テニスボールにゴム着いたやつ打ったことあるってこと?」
「私はありますけど、みんなはあるかな?」
真美はそう言って周りを見た。女子の殆どと男子全員が首を捻っている。
「女子がちょっといるくらいですね」
「だろ? みんなも私と浜本みたいにやったことないだろ? じゃあなんでもっと
食い付いてこないの? テニスボールにゴムが付いたやつだぞ?」
「逆になんでそんなにテンション上がってんの? テニスボールにゴムが付いただ
けだろ?」
駿の疑問に智子は真顔で答える。
「お前はやっぱり馬鹿だな」
「え!?」
「ゴムが付いてるってことは打ったら勝手に返ってくるってことだろ? 言われな
きゃ分からんか?」
「返ってくるからなに?」
「ボールが勝手に返ってくるから1人で一生続けられるだろうが!!」
「いや、流石に一生は無理だよ。というか、そんなの一生やりたくないし」
駿の言葉に智子は悔しそうにしている。もうちょっとで泣きそうだ。
そんな智子を慰めるように真美は優しく問いかけた。
「校長先生とはどんな話をしてきたんですか? テニスの話ですか?」
「うん……。テニスボールにゴムが付いたやつを放課後に校庭で使ってもいいか、
許可もらってた」
「そのテニスボールとラケットは手元にあるんですか?」
「ううん。今は無いけど、学校が終わったら浜本が家に取りに帰ってくれる」
「そうですか。それって私たちも参加してもいいですか?」
「みんな、やりたいの?」
「私はやりたいです」
真美はそう言って手を挙げた。
「俺も」
「私も」
生徒たちは続々とあとに続き、あっという間にクラス全員の手が挙がった。
「全員じゃね?」
「全員だ」
生徒たちは手を挙げたまま、きょろきょろと周りを見回した。
それを見た智子の表情が少しだけ明るくなった。
「全員? みんな一旦手を下げて。参加しない者は手を挙げて?」
生徒全員が手を下げ、改めて周りを見回している。
「ほら、全員だ」
「全員参加だ」
自然とクラスに笑いが起こる。
「みんなほんとにいいの? これは授業じゃないから、別に気を遣わなくてもいい
んだぞ」
「みんな本当はやりたかったんですよ」
「みんなでやろうぜ!」
真美と朝陽の言葉に他の生徒たちも声を上げる。
「やろう!」
「テニス!」
「楽しみー」
「私やったことあるから教えてあげる」
クラスが盛り上がる中、6時間目の終了を告げるチャイムが鳴った。
終わりの会を素早く済ませると、生徒たちはランドセルを背負って校庭へ駆けて
いった。
「走って取ってくるから!」
涼香はそう言うと、ひとり校門を出ていった。
10分としないうちに涼香はボールとラケットを持って戻ってきた。
「なにこれ?」
「俺、これ見たことある」
「打つと返ってくるのか、なるほどな」
どうやら、殆どの男子は智子の言う「テニスボールにゴムが付いたやつ」がなん
なのかを理解していなかったようだった。
「お前ら分かってなかったのかよ」
智子は呆れたように呟いた。
「じゃあ、まずは涼香ちゃんからやってみようよ」
「えー、私ほんとに初めてだからできるかなあ……。ともちゃん先生、お手本見せ
てくれない?」
「なんで私からなんだよ。私だってやったことないよ……」
「先生なんだから。ね? はい」
涼香は半ば強引にラケットを智子に渡した。
「やる順番に先生とか関係ないだろ……」
智子はぶつぶつ言いながら、仕方なくラケットを受け取り構えた。しかし、上手
く構えが決まらない。
「……」
「はい、ボール」
「……あれ?」
「どうしたの? ともちゃん先生」
「このボール、黄色いぞ」
「テニスボールはみんな黄色いよ?」
智子の疑問に涼香は不思議そうな顔で答えた。
「しかも硬い! ゆるゆるじゃない!」
「どういうこと?」
「私が子供の頃に見たやつはクリーム色でもっとゆるゆるのやつだったんだよ!」
「そうなの?」
「ともちゃん先生が言ってるのって多分ソフトテニスだと思う」
2人の話を聞いていた愛梨が後ろから口を挟んだ。
「ソフトテニスって言って、ゴムボールでやるテニスもあるんだよ」
「そうか。私が子供の頃に見たのは多分そっちのボールだ。そうかそうか。うん、
じゃあ私これはできない」
「え!?」
智子の突然の「できない」発言に生徒たちは驚愕の声を上げた。
「なんで? あんなにやりたがってたのに……」
涼香は信じられないといった表情で呟いた。
「私はいいから、ほれ」
智子はラケットとボールを隣にいた真美に渡した。
「ともちゃん先生、本当にやらなくていいの?」
「そうだよ。まずはともちゃん先生が手本見せてよ」
「俺たちはあとでいいからさ、ともちゃん先生からやりなよ」
「……いやだ」
生徒たちの勧めをを智子はきっぱりと断った。生徒たちが戸惑ったのは、智子の
テンションが再びどん底にまで落ちていたことだった。
「ともちゃん先生、どうしたの? 黄色いボールになんか嫌な思い出でもある?」
「……別に」
「じゃあなに? 私たちのことなら気にしなくてもいいんだよ?」
「……だって、重いから」
智子はぽつりと呟いた。
「え? なに?」
「……重い」
「重い? なにが?」
「……ラケット」
「ラケットが重い?」
智子の思わぬ回答に生徒たちは驚いた。
「だって、私の腕力6才だから……」
智子はそう言って悔しそうな顔をする。
ポーン ポーン ポーン
智子を中心にして取り囲む女子たちを尻目に、男子たちは「1人テニス」を楽し
み始めた。
ポーン ポーン ポーン
男子たちのはしゃぐ声と弾けるテニスボールの音を背中に聞きながら、今にも泣
き出しそうな顔で佇む智子なのであった。