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23 自分の名前

 6時間目が終了し終わりの会が始まる前に、集めていたノートやプリント等が智

子から生徒たちに渡される。


 この日は朝に提出していた宿題が生徒たちに返却された。


 ノートが他の生徒たちの手に行き渡る中、進介は自分の手元には戻ってこないこ

とに戸惑っていた。


「高平、ちょっと来い」


 智子に呼ばれた進介は緊張で身体が強張るのを感じた。


 進介は所謂、「緊張しい」というやつで、何か特別なことがあるわけでもないの

に常に緊張状態にあった。


 椅子に座る智子の側に立つ進介。クラスメイトたちはこれから何が起こるのかと

2人に注目している。


「お前の名前の書き方なんだが、なんだこれは?」


 そう言った智子の指の先は進介のノートの表紙を示しており、その小さな人差し

指のすぐ上には油性ペンで「高ひらしんすけ」と書かれていた。


「はい……」

「はいじゃないよ。これ、お前が書いたんだろ?」

「はい」

「なんでこんな書き方なんだよ。全部漢字で書けよ。テストなんかもお前こうやっ

て書くだろ。見るたびに、むずむずするんだよ」

「すいません……」


 進介は小さな声で謝った。


「別に謝る必要はないけどな。それよりなんでいつもこんな書き方なんだ? この

間やった小テストでもこの書き方だったし。どうするんだ? 中学に行ってもこう

書き続けるつもりか?」

「いえ、中学では多分、全部漢字に直すと思います」

「全部漢字に直すっていう言い方もよく分からんが……まあ、それはいいや。中学

に行ったら全部漢字で書くんだな? じゃあ今からそうしろよ。その方がこっちも

見やすくていいし」

「はい……」

「なんかこう書く理由でもあるのか?」

「実はぼく、トラウマがあって……」


 進介は目を伏せ、弱々しく言った。


「トラウマ? なんだ? 話せるようなことなら聞くけど、やめておくか?」

「いえ、そんなたいした話ではないんですけど……」


 そう言うと進介は4年前に経験したある出来事を語り始めた。 



 ぼくは当時2年生で、1組の楢崎先生のクラスにいました。

 その日は1時間目の国語の授業で漢字テストがあって、それが終わりの会の時に

返却されました。


(8問正解だ。80点か、よくできたかな。分からなかったのは、「場」と「鳴」

か。「鳴く」ってこんな字なんだ――)


「あー!」


 ぼくが返ってきたテストを見直していると、突然隣の席の女子が大きな声を出し

たんです。ぼくは驚いて彼女の方を見ました。すると彼女は怒ったような顔でぼく

のことを睨んでいました。


 訳が分からず戸惑うぼくに彼女は言いました。


「高平くん、まだ習ってない漢字使ってる! 勝手に使ったらあかんのに!」

「え……」

「名前! そんな字、まだ習ってない!」



   高平進介



 ぼくの名前です。この4文字の中で既に習っていたのは「高」だけで、その他の

3文字は確かにこの時点ではまだ授業で習ってはいませんでした。


(まだ習ってない漢字って使っちゃ駄目なのか……)


 衝撃でした。そんなルール、聞いたことがなかった。自分の名前なんだから書い

て当たり前だと思っていた。


 そこでぼくは周りを見回し、他の子たちがどうしているかを確かめました。ここ

でぼくはこの日2度目の衝撃を受けたのでした。


 男子の名前も女子の名前もほとんどの文字が「ひらがな」で書かれていました。


(みんな、自分の名前もひらがなで書いてる……)


 ぼくは改めて隣の女子の顔を見ました。「ね? みんなそうしてるでしょ? 私

間違ってないでしょ? 間違ってるのは私じゃなくてあなたの方でしょ? どうす

るの? あなたはこれからもまだ習ってない漢字を書き続けるの? そしたら私、

それを見つけるたびにあなたにそのことを指摘し続けるわよ?」――そんな顔で彼

女はぼくの方を見ていました。


 恥ずかしくなったぼくは、漢字だけで名前が書かれたその答案用紙を、素早くラ

ンドセルの中に隠しました。その時、隣の女子がどんな顔でぼくのことを見ていた

のかは分かりませんし、知りたくもありません。直前のあの勝ち誇った顔が更にお

ぞましい悪魔のような表情になっていたとしたら、ぼくはその場で失禁をしていた

ことでしょう。


 短い終わりの会の後、いつものぼくならば校庭に出てクラスメイトとドッヂボー

ルに興じていたことでしょう。しかし、その日のぼくは違いました。ドッヂボール

などせずに、一目散に家に帰りました。まさに、「逃げるように走り去る」とはあ

のことです。


 いつもより3時間も早いぼくの帰宅に、専業主婦の母は驚きました。「どうした

の? そんな真っ青な顔をして」なにも知らない母から見ても分かるくらい、ぼく

の顔色は優れなかったようです。

 

 ぼくは部屋に閉じこもり、これからどうするかを考えました。しかし、答を出す

のにそれほど多くの時間は必要ありませんでした。


 翌日からぼくは自分の名前を、「高ひらしんすけ」と書くようになりました。




 進介から4年前のトラウマに関する話を聞き終えた智子は口を開いた。


「なるほどな。つまりお前は、ノイローゼなんだな」

「えっ」


 智子の一言に進介は驚きの声を上げた。


「ぼく、ノイローゼなんですか?」

「うん。私は医者じゃないから、ここからは話半分で聞いてくれ」

「はい」

「お前はノイローゼだ」

「えー……」

「自律神経がいかれてるから病院に行って薬もらって飲め」

「自律神経……」

「詳しくは知らん。医者に聞け」

「はい……」

「あと、名前はこれからは全部漢字で書け。これは命令だ」

「書けるかなあ……」

「うるせえ。書けないわけないだろうが。黙って従え。もうこの変な書き方は2度

とするなよ。したら今後はテスト全部0点にするからな」

「えー……」

「分かったら、すぐに席に戻って座れ。時間の無駄だ」

「はい……」



 進介は返してもらったノートを手に席に戻った。

 

(自分は明日から自分の名前を全部漢字で書くのか……)


 進介は4年前の出来事を思い出し、不安な気持ちになるのであった。  

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