22 世界一細いストロー
翌日、諒はいつも通りに登校していた。
前日、殴られて怪我をした彼は病院へ行き、治療後は学校へは戻らずにそのまま
帰宅をしていた。
夕方、拓海と拓海の母は菓子折りを持って桐谷家を訪れ、謝罪を行い、2人は一
応仲直りをしたことになっている。
智子の長い教師生活の中で、子供同士の喧嘩などは何度も遭遇してきたことであ
る。
小学校では、そんなものはあって当たり前のことであり、いちいち騒ぎ立てるほ
どではないのだが、今回のように出血を伴うとなると話は別であった。
智子は被害者の諒だけではなく、怪我をさせた拓海にも気を遣い、朝から声を掛
け、注意深く2人を観察していた。
休み時間の2人を見ると、諒には太一が、拓海には進介がずっと側について過ご
している。
(土橋と高平も、あいつらなりに責任を感じているのかもしれないな)
これなら大丈夫だと智子は胸を撫で下ろした。
給食が終わると掃除の時間になる。
6年生になると自分たちの教室だけではなく、別校舎にある1年生のトイレの掃
除も担当することになる。
掃除をするのは生徒たちだが、担任も見回りには行かなければならない。
智子が見回りに行くために教室を出ると、諒と太一が給食で使われた牛乳瓶を水
道で洗っているところに出くわした。
智子は立ち止まり、不思議そうにその光景を眺めていた。なぜなら、牛乳瓶は使
い終わったらそのまま給食室に返せばよく、洗う必要などなかったからだ。
(なにやってんだ、こいつら?)
それにもうひとつ、智子には不思議なことがあった。それは、諒の手にストロー
が握られていたことだ。
(ストロー? しかもなんだあれ、細いなー)
諒の右手の人差し指と親指に掴まれたストローは信じられないほどに細かった。
おそらくそれは、この世で最も細いタイプのストローであった。
(あんな細いストローよく用意したよな。というか、なんに使うんだ? あの細い
ストロー)
智子に見られていることも知らず、諒と太一は洗った牛乳瓶に、なみなみと水を
注いだ。
そして、穴の直径が1ミリほどのストローはその中に突っ込まれたのだ。
(水を牛乳瓶で飲むのか?)
なみなみと水の注がれた牛乳瓶は太一が両手で持っている。
穴の直径が1ミリほどのストローは諒の右手の人差し指と親指の間につままれて
いる。
そして、諒の左手には半透明の小袋に入った粉薬が掴まれていた。
顔を上に向けた諒は粉薬を口に含んだ。
そして次に細いストローを口にくわえ、牛乳瓶の水を飲み始めた。
「ありがとう」
諒の言葉をきっかけに、太一は牛乳瓶の残りの水を流しに捨てた。
「桐谷さぁ……」
「あ、ともちゃん先生」
立ち去ろうとする諒に智子は声を掛けた。
「それ、薬?」
「はい。昨日病院でもらった抗生物質です。毎食後なんです」
「そうか……。それはそうと、なんだその細いストローは。牛乳瓶から水を飲むの
にどうしても必要か?」
「え? これですか?」
諒は右手に持ったストローを胸の前に持ち上げた。
「はい。水を飲むので。コップを持ってくるとどうしても荷物になるので、牛乳瓶
を代わりに使ってます」
「いや、コップはいいんだよ。じゃなくて、その細いストローよ。それ、いる?」
「えっ?」
「えっじゃなくて。薬を飲むのにその細いストロー、いる?」
「……いりますよね、普通」
「こう見えて私は人生48年生きてるんだよ。何度となく薬は飲んできたんだよ。
でもな、薬飲むのにストローを使った事なんて一度もないんだよ」
諒は智子の言葉に、きょとんとした顔をしている。
「粉薬ですよ?」
「薬の種類の問題か?」
「うちでは、粉薬の時は家でもストロー使いますけど?」
「そうなの?」
智子と諒はお互い怪訝な表情で見合い、そして同時に太一の方を見た。
「お前んちはどうなんだ? 土橋家でも粉薬にはストローか?」
2人からの迫力のある視線に少したじろいだ太一は、一呼吸おいて答えた。
「うちの家はストローは使わないです」
「えっ……」
「だろ!」
驚く諒と人差し指を太一に向ける智子。
「使わないよ普通。なんで薬を飲むのにストローなんか使うんだよ。そもそもスト
ローってそういう道具じゃないだろ」
「うちだって、錠剤の時は使いませんよ……」
「そういう問題じゃないだろ。で、なんで粉の時はストローがいるんだ? どうい
う理屈だ?」
「粉薬を口に含んだ状態で口を大きく開けると、飛んでいくじゃないですか?」
「なにが?」
「粉薬が」
「飛んで行かねえよ。行くわけないだろ。どんな神経症だよ」
「……そんな気しない?」
諒は同意を求めたが、太一は首を傾げるだけだった。
「うわー……。俺の家おかしかったのか……。もう人前でストロー使えないわー」
諒は頭を抱えた。
「いや、別に使ってもいいんだぞ? 世の中にはいろんな価値観があるからな。粉
薬飲むのに細いストローを使う家があってもいいじゃないか。別におかしくはない
ぞ。な? 土橋」
「太一、そう思う?」
「うん。うちでは使わないけど」
「いやお前、そんな言い方してやるなよ」
智子は太一に注意した。
「やっぱ、変なんだよー。俺んち今までそんな目で見られてたのかよー。ショック
だ……」
「土橋、お前のせいで――」
「あっ!!」
諒は突然頬を押さえ、大きな声を上げた。
「どうした……」
「あぁ……」
「なんだ?」
「血、出てきた……」
「口の中か?」
「うん……昨日の所……」
諒はそう言うと、流しに血を吐き出した。
「お前、ストレスで傷口が開いてんじゃないかよ!」
諒の口角から血が滴り落ちる。
「ともちゃん先生、どうしよう。どんどん出てくる……」
「飲め! それか吐け!」
「どっちぃ?」
「どっちでもいいよ! いいか、傷口には触れるなよ。舌は動かすな」
「おえー」
諒は白目をむきながら流しに血を吐き続けた。
「保健室だ! 保健室に行くぞ!」
「おえー」
「口閉じてろ! ちょっとは我慢しろ!」
「諒、ごめん……」
「謝るのなんて後にしろ! ちゃんと肩を抱け!」
他の生徒に見守られながら智子と太一に連れられた諒は、出血のため2日連続で
保健室送りになったのであった。