214 風呂の中で屁こいとんのか
この日は朝から教室の様子がおかしいと智子は感じていた。
いつもの教室、いつものメンバー……いつもとなにも変わらないその中で違うの
は彼らの口ずさむ歌であった。
「泣いて泣いて泣いて暴力団になりてー♪」
それは歌手の長口剛が40年近く前に発表した曲である。
「泣いて泣いて泣いて暴力団になりてー♪」
それはPTAが選ぶ「小学生が口ずさんではいけない曲」ワースト10に確実に入
る迷曲である。
「泣いて泣いて泣いて暴力団になりてー♪」
その曲を朝から朝陽を中心に男子たちが声を揃えて歌っている。
曲の名は「泣いて暴力団」昭和末期のヒット曲である。
黙って聞いている女子たちに笑顔はないものの、去年赤瀬学級だった数人だけは
懐かしそうにリズムを取っている。
「やめろ」
教室後方で騒いでいる男子たちに近付きながら智子は下品な歌を歌うことを禁止
した。
「なんでですか、ともちゃん先生」
「下品すぎるからだ」
「なにを歌うかは俺たちの自由ですよね?」
「人前で下品な歌を歌う自由なんてない」
「ともちゃん先生は自由を捨ててまで上品にこだわるのかよ」
「当たり前だ。これ以上しょうもないこと言ってるとぶん殴るぞ」
「えー……」
智子は本気である。
自分のクラスの上品さを守るためであれば暴力も辞さないのだ。
「ぶん殴る方が下品だと思うけどなあ……」
蓮はぶつぶつ言いながらも智子の命令に従った。
「でも、赤瀬先生はバスの中でこの曲歌ったらしいぜ」
健太は朝陽から聞いた情報を智子にも教えた。
「らしいな。だとしても、赤瀬先生は大人だからな。お前らとは違う」
「大人なら下品な曲を歌ってもいいのかよ」
「いい。大人は自己責任で下品な歌も歌える」
「勝手だよな」
「それにお前らがその曲に影響を受けると困るんだよ。暴力団を格好いいと思わな
いでくれよ」
「俺たちよりも赤瀬先生の方を心配すべきじゃないの? ヤクザに憧れてなきゃ、
こんな曲歌わないでしょ」
春馬は赤瀬学級ではなかったので赤瀬のことをよくは知らないが、こんな曲を生
徒の前で堂々と歌うのはまともな神経をしていないと思った。
「さすがにそれはないよな? 中井、そうだろ?」
「どうなんですかねえ……」
朝陽が同意せず首を捻ったことに智子は驚いた。
進介以外の教え子は皆赤瀬に好意的だと思っていたからだ。
「赤瀬先生って微妙にヤクザっぽい所もあったんですよね」
「ないだろ! 小学校の先生だぞ!? ヤクザっぽい所なんかない……よな?」
智子は断言したかったけどできなかった。
なぜなら視線の先に進介がいたからだ。
進介は他の誰も知らない赤瀬のヤクザっぽい所に気付いているかもしれない。
「そういえば赤瀬先生って――」
進介がしゃべり始めた瞬間、智子は負けを確信した。
(こいつはきっと赤瀬先生のヤクザっぽいところに気付いてしまっている……)
智子は話を聞く前から心の中では既に白旗を挙げていた。
赤瀬から怒鳴られる日々、それが昨年の5年3組の生徒たちの日常であった。
朝も昼も夕方も月曜から金曜まで時間帯や曜日に関わらず、生徒たちは赤瀬に怒
鳴られ続けた。
怒鳴られるのは大抵が男子であったが、女子の中にも例外が2人いた。
1人は今年は3組にいる須藤薫子でもう1人が1組の久本結衣である。
薫子はいつも口を開けていていたため男子からは馬鹿だと思われているのだが、
赤瀬に怒鳴られがちだったのはもちろんそれが理由ではない。
薫子は話しかけられても反応が鈍く、そもそも話の内容を完全に理解しているの
かさえ怪しかった。
男子が薫子を馬鹿だと思っている最大の理由がそれなのだが、教師の立場とする
とそういう生徒には特に優しく接するのが正解のはずだ。
しかし赤瀬は違った。
70年代の青春ドラマに憧れ、長口剛を口ずさむ彼の価値観は時代に追いついて
いなかった。
そのため、どんくさい薫子に対しても平気で叱責をした。
生徒の個性に合わせた教育など赤瀬の頭の中には1ミリもなかった。
そしてもう1人の怒鳴られ女子の結衣は、素直でないことが赤瀬の気に触れる最
大の要因であった。
その最たる例は日記を家に忘れたため学校のトイレで書き、それがばれて赤瀬に
怒鳴られたことだ。
そんなことはせずに最初から忘れたと謝っていれば、赤瀬だってその程度では余
程機嫌が悪い日でなければ怒鳴ったりはしない。
しかし結衣は誤魔化そうとするから赤瀬の逆鱗に触れてしまうのだ。
それは2学期のこと、忘れ物をした結衣が誤魔化そうとして赤瀬にばれてしまっ
たことがあった。
クラスメイトたちは「またか」と思ったが、怒られるのが自分ではないので黙っ
て赤瀬の説教を聞いていた。
おかっぱ頭で太眉の結衣は怒られるとほっぺが赤くなる。
進介はいつものように、怒鳴られる結衣の赤いほっぺをなにも考えずに見つめて
いた。
赤瀬は怒鳴る。
怒鳴りながら質問をする。
立たされた生徒は泣きそうになりながら、なんとか答える。
それがいつもの風景だった。
もちろんその日もその流れは同じで、結衣は赤瀬の質問になんとか声を振り絞り
回答していた。
「なんで、誤魔化そうとした! そんなことするなって前にも言ったよな!」
「はい……」
「誤魔化すなって言ったよな!」
「はい……」
「あ!? 聞こえへん!」
「言いました……」
怒鳴り続ける赤瀬の迫力にビビりまくる結衣の声は産まれたばかりの子犬よりも
か細いものだった。
そして次の瞬間、赤瀬の口から衝撃の言葉が飛び出した――
「風呂の中で屁こいとんのか!!」
赤瀬の言葉に生徒たちは耳を疑った。
ふろのなかでへぇこいとんのか――廊下にまで響き渡ったその言葉は果たして教
師が口にしてもいいものなのだろうか。
ふろのなかでへぇこいとんのか――赤瀬は年度末までにあと数回この言葉を口に
することになる。
ふろのなかでへぇこいとんのか――これを聞いた生徒は決して白い歯を見せては
ならない。
ふろのなかでへぇこいとんのか――なぜなら赤瀬は笑いを取ろうとしているので
はなく真剣に言っているのだから……。
智子は信じられない思いだった。
(赤瀬先生は本当に生徒たちにそんな下品なことを言っていたのか……)
「それ、ほんと?」
智子は結衣に直接聞いた。
「事実です」
結衣は消え入るような声で言った。
「まさにこのタイミングです。赤瀬先生なら今言ってますよ、『風呂の中で屁こい
とんのか!』って。チンピラですから」
進介は真顔で指摘した。
「そうか……」
「チンピラじゃねえよ」智子はそうつっこまなければならなかったはずだ。
しかしその言葉が出てこなかった。
風呂の中で屁こいとんのか――その言葉のインパクトはそれほどまでに強烈だっ
たのだ。
仕事のストレスを抱えていない社会人などいないし、それは教師だって同じこと
だ。
赤瀬がおかしくなったのはそのせいだというのは無理があるだろうか。
(剛のファンはこういう人ばっかりなのかなあ……)
赤瀬の悪いところをなぜか剛のせいにする智子なのであった。




