212 俺のこと海斗くんて言え
葉っぱが赤く色づき、冬の足音が聞こえ始めた。
少年たちは思った、「今年はあと何回、草野球ができるのだろうか」と。
「今日は3組の海斗くんも参加するから」
ランドセルに腕を通そうとした進介に朝陽は言った。
「海斗が……なんで?」
「佐久間先生から頼まれたんだ。たまには海斗くんも入れてやってくれって」
それを聞いた進介が露骨に嫌な顔をするのを智子は見逃さなかった。
大沢海斗――6年3組に所属する彼は、同時に特別支援学級にも在籍している。
彼は障碍者なのである。
知能に遅れがあり運動能力も同学年の生徒には敵わない。
遠足などの行事の場合は6年3組の生徒として参加をしているが、普段は1階に
ある特別支援学級で過ごしている。
進介が海斗の名を聞いた瞬間に嫌な顔をしたことが智子には残念であると同時に
意外に思えた。
進介は特別支援学級の生徒に対しても馬鹿にしたりすることなく平等に接するこ
とのできる人間であると思っていたからだ。
(高平も小学生だからな。欠点くらいあるよな……)
智子は進介に対してあまり厳しい見方をしないように気を付けながらも、言うべ
きことは言っておかなければならないと思い声をかけることにした。
「ちょっといいか」
智子に呼び止められ進介と朝陽は振り返った。
「なんですか? ともちゃん先生」
「3組の海斗くんだったっけ? 野球に参加するんだろ?」
「はい。いつもの公園です」
「で、それには高平も参加するんだな?」
「いえ、ぼくは今日は参加しません」
「それは、なんで?」
「海斗のことが嫌いだからです」
「ほう……」
進介の態度に智子は驚いた。
まさかこんな強い拒絶の言葉を聞くことになるとは思いもしなかったから。
生徒たちの心の中を知ることはできない。
中には特別支援学級の生徒に対して嫌悪感や差別意識を持っている生徒もいるか
もしれない。
しかし少なくともそれを口にした生徒を智子は今まで見たことも聞いたこともな
かった。
その初めての生徒が、誰に対しても親切で友達の多い進介であったのが智子は衝
撃であった。
「嫌いなのか?」
「はい、嫌いです」
「そうか……理由があれば聞かせてくれるか?」
「俺も聞きたい」
朝陽も智子と同じく驚いた表情をしている。
「海斗って、去年はぼくと同じ5年3組だったんです」
進介は海斗との思い出を語り始めた――
担任の赤瀬から特別支援学級の大沢海斗が同じクラスであると聞かされた時、進
介は初めて彼の存在を知った。
きっとその海斗という男子は自分が入学後に転校してきたのだと進介は思った。
「彼は知的障害があるが、みんなと同じ5年3組の一員だ。だからみんな彼とも他
のクラスメイトと同じく平等に接するように。普段の授業は別々に行うが、体育と
給食の時間は一緒に過ごそうと思う。みんな、それでいいな?」
赤瀬の提案により海斗は体育と給食の時間を5年3組の生徒として、共に平等な
立場で過ごすこととなった。
「今週は1班に入ってもらって、来週は2班、その次の週は3班だ。時間になった
ら向こうのクラスまで迎えにいってあげよう」
給食は週替わりで班を移動し、体育以外にも音楽会や運動会、遠足や校外学習な
どの行事にも5年3組の1人として参加をした。
赤瀬の方針もあり、海斗は特別支援学級の生徒としては驚くほど多くの時間を普
通学級で過ごした。
なにせ毎日特別支援学級から普通学級に通う生徒は他にはいなかったのだから。
1学期も終わろうとしていた7月の中旬、その日は4班が海斗を迎えにいく番で
あった。
4時間目が終わるといつものように4班の女子が海斗を迎えにいくために教室を
出た。
なぜ男子ではなくて女子だったのかというと、男と女で海斗の態度があからさま
に違ったからである。
海斗はほぼ笑顔を見せない生徒であったが、女子に話しかけられると喜んでいる
ような空気を醸し出していた。
それに対して男子から話しかけられると、周りに女子か先生がいないと必ず無視
をするのだった。
そのことを聞いた赤瀬は特別支援学級教諭の佐藤明子と相談し、迎えに行くのは
女子だけと決めたのであった。
その日も女子だけで迎えにいったが、わずか10秒ほどで彼女たちは海斗ととも
に教室に戻ってきた。
「海斗くん、自分ですぐ前まで来てました」
迎えにいった女子の1人が笑顔でそう言った。
海斗は給食の時間を5年3組で過ごすのが楽しみで自分から来ていたのだった。
そのことを知った瞬間、教室にいた全員の顏に笑みが浮かんでいたのは言うまで
もない。
生徒たちもそして赤瀬も、自分たちがやってきたことは間違いではなかったと誇
らしく思えた瞬間であった。
それから3か月の月日が流れ、校外学習の準備をしていた時のことだった。
「海斗くんは校外学習では3班だからね」
「海斗くんは奈良へは行ったことあるの?」
「海斗くんはバスは平気? 往復6時間くらいかかるんだって」
同じ班の生徒の話を聞いていた進介の中に、ふと疑問が湧き上がった。
(どうしてみんな海斗のことを「くん」を付けて呼ぶんだ? 平等に接するんだっ
たら他のクラスメイトと同じように呼び捨てにしないと駄目なんじゃないか?)
この学校では女子が相手に対して「くん」や「さん」を付けることはあるが、男
子がそうすることはまずない。
しかし、海斗に対してはどの男子も「海斗くん」と呼んでいる。
進介はそのことに疑問を感じたのだ。
無口な進介はそれまで海斗と会話をしたことがなかった。
それが今、初めて話しかける――
「海斗は大仏見たことある?」
海斗の表情に変化はない。
「海斗は鹿は見たことある?」
進介のこの質問にも海斗からの返事はなかった。
そうするうちにチャイムが鳴り授業は終了した。
生徒たちは後片付けをしながら散らばっていく。
その時、海斗が進介に近付いた。
普段は男子に全く興味を示さない海斗が近付いてきたことに進介は戸惑いながら
彼の顔を見た。
すると――
「俺のこと『海斗』っていうな。『海斗くん』て言え」
海斗はそれだけを言い残して5年3組の教室をあとにしたのであった――
「驚きましたよ。あいつ普段は男子と話をすることなんて全くないくせに、自分が
呼び捨てにされた時だけ話しかけてきやがったんです。『俺のこと海斗って言うな
海斗くんて言え』だって。ぼく、それ以来あいつのことが嫌いなんです」
ちょうど1年前の出来事を話した進介は改めて海斗のことが嫌いだと表明した。
「……そんなことで喧嘩するの?」
「喧嘩はしていません。ただ、お互いに嫌い合っているだけです」
「向こうが高平のことを嫌っているかは分からないけどな……」
珍しく怒った表情をする進介を見ながら智子は思った。
(こいつ、面倒臭え……)
智子が進介に対してこう思うのは一体何度目のことだろうか。
「別にくん付けで呼べばいいじゃねえか……」そう思うのは簡単だ。
しかし進介は気付いてしまったのだ。
障碍者であろうとも平等に扱うべきならば、くん付けはできないと。
誰が悪いわけではない。
男子がお互いを呼び捨てにするのは一般的なことなんだから、むしろ進介こそが
海斗との距離を縮めようと努力をしたと評価されるべきなのかもしれない。
ただ、これからの人生で進介のような「気付いてしまう人間」は必ず損をする。
そう思うと進介のことが気の毒でならない、そんな智子なのであった。




