211 悪霊はトイレはセーフ
智子は走った。
職員室を出て北校舎へ移動し、手摺りに掴まりながら階段を上がる。
3階隅にある6年1組の教室へ向けて智子は走った。
(伝えなきゃ……この事実を一刻も早くあいつらに伝えなきゃ……)
息を切らせながら智子は教室に飛び込んだ。
「佐久間先生に聞いてきたぞー!」
教室に入るなり智子は大声で叫んだ。
こういうことは初めてではないので生徒たちは「またか」と思うだけなのだが、
どんな流れでなにを聞いてきたのかはさっぱりである。
教卓の下に置いてある踏み台に上がった智子は肩で息をしており、ここまで走っ
てきたのは生徒の目にも明らかであった。
「廊下を走ってはならない」1年生でも知っているこのルールを平然と破る智子に
委員長の真美は注意をするべきか迷ったが、どうせ「そんなことどうでもいい」と
いうおよそ教師らしからぬ答えが返ってくるのは目に見えていたので今回は放置を
することにした。
「昼休みに職員室であの話をしたら、佐久間先生がな答えを知ってたんだよ!」
智子は興奮している。
しかし生徒たちは智子の言う「あの話」がなんなのか分からない。
「あれ? みんな冷静? さっきはあんなに深刻だったのに」
「ともちゃん先生」
朝陽は手を挙げた。
「なんだ、優等生」
「ともちゃん先生の言う『さっき』とか『あの話』がなんなのかが分かりません」
「あっ、そうか。悪霊の話は一部の女子としかしてなかったか」
「悪霊?」
「うん、悪霊。中井の家にもいるんだぞ、悪霊」
「……」
朝陽はまさか学校の先生から「お前の家には悪霊がいる」などと言われる日がく
るとは思ってもみなかったため、どういう反応をすればいいのか分からなかった。
「うちって悪霊がいるんですか?」
「いる」
断言する智子。
困惑する朝陽。
「でも気にするな。佐久間先生から対策を聞いてきたから」
「その前に流れに沿って説明をしてもらえませんか……」
「うん、そうだな。じゃあ荻野、さっきの話をみんなにしてやってくれ」
「はい……」
美月は「どうしてともちゃん先生がしないんだろう」と疑問に思いながらも立ち
上がり、クラスメイトたちに智子から聞いた「夜、悪霊に狙われる話」をした。
「家で寝ている時、夜中にドアをノックされることがあります。そのノックをして
いるのが悪霊です。悪霊がなぜノックをするかというと私たちの身体を乗っ取ろう
としているからです」
美月の説明を聞いたクラスメイトたちから「えっ」という小さな声が漏れる。
「悪霊って日本にもいるの?」
健太は素朴な疑問を投げかけた。
それに対して智子は回答する。
「いる。アメリカやヨーロッパにいるものは全部日本にもいる。むしろ、いないと
思うな」
「動物とか虫はいる国といない国があるじゃん。だったら悪霊もいない国があって
もよくない?」
健太が珍しく例を挙げて反論をした。
「なるほど。虎やライオンが日本にはいないように悪霊も日本にはいないんじゃな
いかという意見だな?」
「うん」
「お前は自分に都合よく物事を考えすぎだ。たわけ」
「たわけ……」
智子は迷いなく健太のことを「たわけもの」扱いした。
「日本に虎やライオンがいないのはこの国が島になる前にそれらの動物が到達しな
かったからだろうが。でも悪霊は違うんだよ。あいつらは人間の心の中に侵入して
移動するんだ。歴史上どれだけの人間が大陸から来日したと思う? その中に1人
でも悪人がいたら、そいつのせいで悪霊が日本にもやってきていることになるんだ
ぞ?」
「ということは何百年も前から悪霊は日本に住みついていたかも……」
「そういうことだ。元寇とかあったしな」
「そんな前から……」
不安になる生徒たち。
いつもの智子なら一緒になって怖がっていたことだろう。
しかし、今の智子は一味違う。
堂々とした態度で生徒たちの前に立っている。
「安心しろ。対策はあるのだ」
自信満々なその態度に生徒たちは希望を感じた。
「悪霊は無条件で我々の身体を乗っ取れるわけではない。ノックに返事をした者の
み乗っ取られるのだ」
「返事……」
「そうだ。つまり身体を乗っ取られないためには?」
「返事をしなければいい……」
「正解」
智子の言葉に生徒たちから笑顔が戻る。
「そんな簡単なことでいいの?」
「ともちゃん先生、間違いない?」
「間違いないぞ、なぜなら――」
智子は生徒たちの顔を見渡し、続ける。
「佐久間先生がそう言ったからだ!」
「「オー!!」」
生徒たちは沸いた。
智子だけでなく佐久間もそう言うのなら間違いがないだろうと思った。
6年1組の生徒たちは智子がたまに適当なことを言うことを知っているので、セ
カンドオピニオンの重要性を理解している。
しかしそんな熱狂の渦の中、昌巳が水を差すような発言をする。
「トイレに入ってる時にノックされたらどうすればいいの?」
途端に静まり返る教室。
「それくらい自分で判断しろよ」というのが大方の考えであった。
「だって、夜中でもトイレには行くだろ? そこでノックされたら返事するよね?
家族だと思って『入ってまーす』って言っちゃうでしょ」
昌巳の指摘はごもっともである。
家でもトイレのドアをノックすることはある。
生徒たちは困惑しながら智子の方を見た。
すると智子はありえないくらいの苦しい表情で昌巳のことを睨みつけていた。
「トイレはセーフだ……」
「え?」
「だから、トイレはセーフだって言ってるだろ!」
「なにがセーフですか?」
「だから、悪霊はトイレのドアをノックしないの!」
「……」
「お前らもトイレは我慢しちゃ駄目だからな! 悪霊はトイレはセーフだから!」
悪霊はトイレはセーフ――智子のこの叫びによって、生徒たちは完全に目が覚め
た。
(そもそも日本に悪霊なんていないんだ……)
「トイレはセーフ」を繰り返す智子を生徒たちは冷静な態度で見つめた。
日本に悪霊なんていない――こんな当たり前のことを見失いそうになっていた生
徒たちも、智子のおかげで目が覚めたのであった。




