210 悪霊
智子は幼女化して以降は毎晩9時過ぎに寝ている。
起きるのは朝の7時過ぎなので、たっぷり10時間睡眠である。
大人になるとそんなにも寝るのは時間の無駄だと思ってしまうが、身体と心が1
年生の智子はそうは思わない。
必要だから毎日10時間寝るのである。
この日も智子はお手洗いへ行き、入浴し、身体を拭いてから歯磨きをする――こ
の一連の流れをまとめて30分で済ませ、9時ちょうどに床に就いた。
大人だった頃は髪の毛を洗ってドライヤーで乾かすだけで30分はかかっていた
気がするが、今となってはどうしてそんな時間をかけていたのかあの頃の自分の気
持ちがよく分からない。
最近の智子はドライヤーは使わず、髪の毛もタオルで拭くだけで済ませている。
それだけで十分乾くし、そもそもドライヤーの置いてある場所が高くて届きにく
いので取ったり置いたりするのが面倒だと感じていた。
風呂から出たばかりだというのに智子の両目は既に半分閉じている。
「ぽわぽわ」という言葉がしっくりくる、そんな表情である。
「ここ閉めるよ」
「駄目!」
母の幸子がリビングと和室を仕切る戸を閉めようとした瞬間、智子は大きな声で
それを制止した。
「閉めちゃ駄目なの?」
「駄目」
「なんで?」
「なんでも」
まるで1年生のような受け答えをする智子。
「夏の間は閉めてなかったじゃん」
「暑い時季はクーラーを付けてたからでしょ? もう肌寒くなってきたんだからこ
れからは閉めますよ」
「布団に入ってたらあったかいんだから閉めなくてもよくない?」
「それだとリビングが寒いでしょ? こたつでは上半身はあったかくならないんだ
から。閉めますよ」
「だー! せめて私が寝てる間は開けててよ!」
「なんでよ、訳の分からない……」
幸子は和室の戸を閉めた。
並べられた布団のうちの1つに横になった智子は、ぶーぶー言いながらもそれか
らほんの数分後には眠りに落ちているのであった――
「ということが、最近毎日起こっている」
休み時間の教室、智子は集まってきた女子たちに向けて真剣な面持ちで語った。
しかし真剣な表情なのは智子だけで生徒たちは、きょとんとしている。
「母親っていうのは子供の意見を聞かない生き物だよなあ。あんなもん、プチモン
スターだよ」
腕を組んだ智子は、しみじみと教師とは思えない発言をしている。
そんな智子に美月は問いかける。
「なんで寝てる時は戸を開けておきたいんですか?」
「え? みんなも開けて寝るだろ?」
「閉めて寝ますけど」
智子と生徒たちは理解ができないという表情で顔を見合わせる。
「みんなが寝てるのって1人部屋?」
「私は1人部屋です」
「私は妹と2人です」
2才年下の妹と寝ている結衣以外は全員1人部屋であった。
「ドア閉めて怖くないの?」
「え……」
「夜中怖くないの?」
「……」
生徒たちは智子の言う「ドアを閉めて寝ると夜中怖い」の意味がさっぱり分から
なかった。
「夜中に突然目が覚めることあるじゃん。怖い夢を見た時とか」
「あります。おばけの夢とか」
「私は殺人鬼に追いかけられる夢を見たことあるよ」
「そういう時って、ハッと目が覚めるだろ?」
「分かります。本当にハッと目が覚めますよね」
美月は自分も経験をしたことのある「怖い夢を見た時あるある」で盛り上がる。
「でも、それとドアを開けておくのとなんの関係があるんですか?」
「夜中にドアをノックされるじゃん」
「え?」
「寝てたら急に誰かから部屋のドアをノックされるじゃん」
「……」
智子の話を聞き、生徒たちの顔が引き攣る。
夜中に自分の部屋のドアが突然何者かによってノックをされる……想像しただけ
で恐ろしいではないか。
「誰なんですか、それ……」
「悪霊」
「悪霊……」
智子はさらっとノックをする犯人を明かした。
「幽霊」ではなく「悪霊」というのが生徒たちの恐怖をそそる。
「ともちゃん先生の家には悪霊がいるんですか?」
「私の家を『恐怖の館』みたいに言うんじゃねえ」
「自分で言ったんじゃないですか……」
「悪霊は全ての家に現れるんだよ」
「え……うちにも?」
悪霊が日本にも存在をするという智子の説に生徒たちは驚いた。
幽霊すら見たことのない自分たちの身の回りに悪霊が?
「悪霊にノックされたらもう終わりっていうことですか?」
「まあ待て」
焦る女子に智子はまず説明を始める。
「なぜ悪霊が部屋のドアをノックするかというとだな、奴らは実体を持たないんだ
よ」
「ノックはするのに?」
「そうだ。多分、ノックする時だけ手がカッチカチになるんだろう」
「どうしてそこまでしてノックしたいんですか? リズムを取るためですか?」
「リズムを気にするのはドラマーだ。悪霊は音を楽しまない」
「じゃあどうして? どうしてノックするんですか?」
「それはお前らの身体を乗っ取るためだ」
「身体を乗っ取る……」
驚愕の事実に女子たちは言葉を失った。
寝ている間に悪霊が自分たちの身体を狙っているという6年生になって初めて聞
くその事実に震えた。
智子を見ると、彼女もまた恐怖で震えている。
自分で言ってて怖くなっちゃったらしい。
「ノックされたらどうすればいいんですか? 対策はないんですか?」
「ある」
「どうすればいいんですか?」
「……」
震える智子はなにも言わずに脂汗を流している。
「なんで黙っちゃうんですか! 教えてくれてもいいじゃないですか!」
「……忘れた」
「え?」
「どうすれば悪霊退散できるのか忘れちゃった……」
「嘘でしょ……」
「覚えてたはずなんだけど、この身体になっちゃったせいか忘れちゃった……」
智子は夜な夜な迫りくる悪霊と戦っている。
実際はぐっすり眠っている日がほとんどなので戦うというほどではないのだが、
いずれ来るかもしれないその日に備えてイメージトレーニングだけは欠かさないよ
うにしていた。
しかしそれも落雷のせいでパーである。
自分は子供の身体になったうえに悪霊にそれを乗っ取られるかもしれない……完
全に泣きっ面に蜂状態の智子なのであった。




