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206 精神病院

 男子たちが教室の隅でひそひそと話をしている。


 朝から降り続いた雨はもう止んでいるが、運動場には至る所に水溜りができてい

るため使用はできない。


 いつもは外で1つのボールを追いかけている彼らも今は教室で大人しくしている

のだが、ちらちらと自分の方を見てくることに智子は嫌な予感がしていた。



「ともちゃん先生、1つ聞いてもいいですか?」


 智子の机の周りに集まってきたのは、朝陽、蓮、颯介、進介、陸斗の5人であっ

た。

 仲が良く、いつも活発に走り回っている彼らが神妙な面持ちで立っている。


「なんだよ。深刻な話か?」

「楢崎先生のことなんですけど」

「楢崎先生?」


 楢崎は彼らが2年から4年までの3年間学級担任を務めており、彼らも最低1回

は受け持ってもらったことがあった。


「楢崎先生がどうしたんだよ。悪い話か?」

「悪い話というか、噂なんですけど……」


 朝陽は言いにくそうに続けた。


「楢崎先生が精神病院に通ってるって本当ですか?」

「なっ……」


 智子は絶句した。

 生徒たちの間で一体どんな噂が広まっているというのだ。


「お前ら、なにを根拠にそんなこと言ってるんだ! 変な噂を流すな!」

「みんな言ってますよ?」

「みんなって誰だよ! 私は初耳だ!」

「先生の間では広まってないのか……」


 蓮は「それは意外だなあ」という顔をする。


「生徒の間では広まってるの? 根拠は? 根拠はなに?」

「楢崎先生っていつも無表情じゃないですか」

「まあ、それはな」


 楢崎が表情に乏しい人物であることは智子にも否定のしようがなかった。


「で? 病院通いをしているっていう根拠は?」

「それです」

「それだけ? 無表情だから病人扱いされてるの!?」

「それで十分じゃないですか?」

「全然十分じゃねえよ!」


 子供というのは経験が乏しいゆえに浅はかな考えに陥りやすいものである。

 しかしだからといって悪意のある決めつけを行っていいことにはならない。


「なんで楢崎先生は自分の表情が乏しいことを理由に精神科に通うんだよ! そん

なことあり得ねえだろうが!」

「あり得ないですか?」

「どこの世界に鏡見て『私って無表情だな……そうだ精神科に行こう』なんて思う

やつがいるんだよ! あり得ないだろ!」

「家族が連れていったのかも」

「お前は家族に表情がないと精神科に行かせるのか! 論理が飛躍しすぎだろ!」


 男子たちは智子の言い分には納得するものの、楢崎が精神科通いをしていること

は尚も疑ってはいなかった。


「精神病院に通ってても先生ってクビにはならないんですか?」

「なるわけないだろ!」

「そうなの?」

「まず、楢崎先生が精神科に通っているっていうのは勝手な偏見だからもう2度と

言うな。いいか、冗談でも言うなよ」

「はい」


 男子たちは微妙に納得がいかない様子だ。


「精神科に通院するとクビにならないかだけど、そういうことはない」

「絶対にですか?」

「少なくとも現代日本においては絶対だ」


 自信を持って断言をする智子。

 これに対しても男子たちは微妙な表情をする。


「精神病の人に先生ってできるんですか?」

「そもそも精神病ってどういうものだと思ってる? 誰でもかかり得る病気なんだ

ぞ?」

「誰でも? 『俺は神だぞ』とか言っちゃう病気でしょ?」

「それは極端な例だな……」


 智子は頭を抱えた。

 生徒たちは恐らくネットで見た情報を元に話をしている。

 専門家でもない自分にどんな説明ができるのだろうかと智子は悩んだ。


「楢崎先生ってそんなこと言わないだろ?」

「言わないですけど、急に変な怒り方します」

「例えばどんな?」

「健太が3年の時に『立ち食いそばごっこ』って言って立ったまま給食を食べてた

ら、『そんな食べ方したら食べ物が咽喉に詰まってしまいます!』って言って激怒

しました」

「その激怒は許容範囲じゃないか?」


 健太が調子に乗ってふざけるのは今も変わらない。


「前にも話しましたけど、蓮が体育の授業のサッカーでしゃがんでた女子の顔面を

フルスイングで蹴ったら、『女の子の顔を蹴ってはいけません!』って言って激怒

しました」

「顔面蹴ったらどの先生でも怒るだろ」

「あいつ、サッカーの試合中にコートの中でしゃがんでたんですよ!」

「うん、そうか……。次からは蹴らないようにしてくれ」 


 蓮は再び「思い出し怒り」をしている。


「健太が3年の時に『ビーフクリーミー』って言ってビーフシチューに牛乳入れた

ら、『周りの人が気持ち悪がってるからそんなことしなさんな!』って言って激怒

しました」

「その激怒も許容範囲だろ。というかそれ完食したの?」

「うまいうまい言って食ってました」

「なんなんだよ、あいつ……」

  

 健太には他人には理解されない味覚があった。


「で、それ以外にはなにかあった? なかったとしたらそこまでおかしな怒り方は

してないだろ。お前らは楢崎先生のことを悪く見すぎなんだよ」

「そうかなあ……」

「病気っていうのは放置すると悪化するからな。精神科へも早めに行くのが重要な

んだ。お前らもそういう状況になったら恥ずかしがらずに行けよ」



 男子たちは「もしかしたら誤解があったのかもしれない」と思い始めていた。


 智子はそんな雰囲気を感じ、胸を撫で下ろした。


 子供というのは簡単に「精神病」という言葉を口にする。


 そこにはまだ彼らが意識していない「差別」が含まれている。


 それを彼らに気付かせるのが教師の仕事なのだが、未だにそれが上手くできない

智子なのであった。

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