205 タイム、蜂に刺されました
「クラスメイトのいいところを挙げよう」という授業を智子は毎年行っている。
挙げてもらうのは2点で、それらは「給食で好き嫌いがない」とか「楽しく休み
時間を過ごしている」といった他愛のないものでもいいことにしている。
優等生の真美と朝陽から始まり、地味な進介や涼香と続き、そしてクラスの問題
児である健太と昌巳にも2つのいいところが生徒たちから挙げられた。
健太と昌巳の2人を終え、智子はほっと一息ついた。
この2人でさえいいところがあるのだから残りの生徒たちだって大丈夫なはず、
智子は胸を撫で下ろしていた。
しかし、智子がさほど警戒していなかった生徒のところで授業は躓いてしまう。
「次は北山だ。みんな北山のいいところを2つ挙げてみてくれ」
「足が速い!」
「そうだな。このクラスで1番速いよな?」
「学年でも1位ですよ」
「学年1位か?」
駿は足が速く、少年野球では1番の強肩でもある。
彼は小柄ではあるが身体能力が高いのだ。
本人もそのことは自覚しているので指摘されてにこにこしている。
「それではもう1つは?」
「……」
教室が静かになった。
誰も駿の2つ目の長所を述べようとはしない。
「えーと、なんでもいいんだぞ。なにかあるだろ」
駿は友達の少ない生徒ではない。
しかし、健太にとっての昌巳や進介にとっての颯介のような親友と呼べるような
存在がこのクラスにはいなかった。
そのため「駿のために」と強く考える生徒がここにはいないのだ。
予想もしていなかった展開に智子は焦った。
教室を見回しても発言をしようとしている生徒は残念ながら見当たらない。
だが、こんな場合に備えて智子は準備をしてきている。
智子は手元の紙に目を落とした。
そこには智子が思う生徒全員の長所が挙げれており、駿の欄には「運動神経がい
い」「いつも笑顔でいる」と書かれていた。
「北山はいつも笑顔だよな。私はそれはいいところだと思うぞ」
自分の2つ目のいいところがなかなか挙がらず戸惑っていた駿であったが、智子
の言葉にようやくいつもの笑顔を見せた。
智子はこれで次に進めると思ったのだが他の生徒たちの反応は驚くほどに鈍かっ
た。
誰も智子の言葉に賛同してこないのだ。
生徒たちは駿の笑顔を必ずしも長所であるとは捉えていなかったのだ。
智子は4月に駿と出会って以降、彼が大きな問題を起こした現場に居合わせたこ
とはなかったし、そのような報告も受けていない。
だから笑顔の多い彼の様子を見て「いつもにこにこしてる生徒だなあ」と思って
いた。
それに対し、生徒たちの評価は違っていた。
生徒たちは入学してから既に6つ目のクラスであり、過去に少なくとも1,2度
は駿と同じ教室で1年を過ごしてきている。
その中で彼のやんちゃな部分を見てきているのだ。
例えばクラスで喧嘩が発生し片方が泣いてしまった時のこと。
他の生徒ならば泣いた生徒に気を遣い、黙って側に寄り添い、タイミングを見て
別の話題を切り出す。
子供なりのやり方があるものだ。
しかし、駿は違った。
にこにこしながら泣いた生徒をいじり、茶化し、おどけてみせた。
周りの生徒が不快な顔をしても気にすることなく空気の読めない言動を続けた。
駿がこんなことを1年の時から続けていたから、生徒たちは彼の笑顔を肯定的に
捉えることができなくなってしまっていた。
そのことを知らないのは本人と智子だけなのである。
「北山っていつも笑顔だよな? 違うの? 私の前だけ?」
「笑ってますけど、悪ふざけしてるイメージが強くて……」
智子は朝陽の「悪ふざけ」というたった一言で全てを察した。
(確かに北山って空気の読めないところがあるんだよな。もしかしたらそれが私が
思ってる以上だっていうことか……)
教室の雰囲気がこれ以上ないくらいまで沈む。
駿のいいところを2つしか考えてこなかったことを智子は後悔していた。
(体育の成績がいいから競技名を挙げて褒めるかな……)
智子があれこれと思案する中、その重苦しい空気を打破する発言をしたのは意外
な人物であった。
「ん? 高平か。いいぞ、北山のいいところを遠慮なく言ってくれ」
手を下ろした進介は立ち上がり、口を開く。
「駿のいいところは、『少年野球でタイムを取ったところ』です」
言い終わった進介は着席したが、周りの生徒は皆ポカーンとしている。
智子も訳が分からずポカーンである。
(野球ってタイム取るよな……)
智子は少年野球をちゃんと見たことがない。
しかしプロ野球ならいつも見ているので野球のルールは大体知っている。
野球は試合中、タイムが取れるスポーツである。
(高平はなにを言ってるんだ?)
智子が言葉を探していると、朝陽が先に口を開いた。
「4年の時の初めての練習試合だろ? 言われてみれば確かにあの時だけかも」
朝陽が進介の発言に共感したことで智子の混乱はますます深まる。
「えっ、なに? タイム?」
「4年の秋にぼくたち少年野球チームに入団したんだけど、初めての練習試合の時
にレフトを守ってた駿がタイムを取ったんです」
「……だから、なに?」
タイムを取った駿の話を聞いても智子の疑問は一切解けなかった。
「タイムって取るでしょ? 野球なんだから」
「選手がタイムを取るのはプロ野球です。少年野球でタイムを取るのは監督と審判
くらいです」
「そうなの?」
「高校野球でもだいたいそうですよ」
智子は春と夏の甲子園の様子を思い返してみるが、確かに球児がタイムを取って
いるシーンは浮かんでこなかった。
「ぼくたちはプロ野球選手みたいにボールチェンジを要求しないし、スライディン
グのたびにユニフォームに付いた土を落とすためにタイムを取ったりもしません。
でも駿は公式戦ではないとはいえ初めての試合でタイムを取ったんです。すごくな
いですか?」
「おお……」
アマチュア選手がタイムを取らないという話は智子も理解した。
しかし、「すごくないですか?」の意味はさっぱり分からなかった。
「ちなみにそれはなんのタイムだったの?」
「ぼく試合に出てなくてベンチにいたんですけど、1塁側だったんでレフトの駿の
動きがよく見えてたんです。あいつ守りながらずっと、ばたばたしてたんですけど
突然、『タイム! 蜂に刺されました!』って叫んだんです」
「蜂に……」
「タイムかけるだけでいいのに理由まではっきりと言ったんですよ?」
「……それは別にいいじゃん」
「駿はあの日、1人だけ相手チームじゃなくて蜂と戦ってたんです」
なぜか遠い目をする進介と朝陽。
当事者の駿はやはりにこにこしている。
失敗しかけた授業であったが、進介のよく分からない思い出話のおかげでなんと
か無事に終えることができた。
(この授業は今年で終わりにしよう……)
そう心に誓う智子なのであった。




