195 約束よりも金が優先される社会への憎悪
土曜参観の代休を終えた火曜日の朝、智子は生徒たちに問い掛けた。
「この間の参観日ってみんなの親は来てたの?」
「俺んちは来てたよー」
「私は両親が来てた」
「うちはお父さんとお婆ちゃんが来てた」
生徒たちは口々に答える。
「ところで、ちょっと窓側の方にサングラスをかけた男の人が立ってたんだけど、
あれって誰だか分かる?」
生徒たちは首を捻った。
仲のいい友達でも親の顔を知らないというのはよくあることだ。
「あのお父さん、そのあとの懇談会には参加してなかったから誰なのか分からずじ
まいなんだよ。自分の親だって言いたくないなら別にいいんだけど、なんだか気に
なっちゃってさ」
「なにがそんなに気になったんですか?」
前を向いて授業を受けていた生徒たちは男の当時の様子を知らないため智子がな
にに引っ掛かっているのかが分からなかった。
「あのお父さんさ、私がなにか言うたびに大きく頷くんだよ。誰かが答えるたびに
大きく頷くんだよ。一言もしゃべらないのにめっちゃ授業に参加してくるんだよ」
智子の大袈裟な表情に生徒たちから笑いが起こる。
「あれ多分、チャップリン2世だぜ」
「チャップリン?」
「喜劇王チャップリンだよ」
「知らないです」
今の子は誰もチャールズ・チャップリンを知らない。
「昔いたんだよ。無声映画時代のスターで黒柳徹子が尊敬してる人だ」
「アメリカ人?」
「いや、多分イギリス人」
実は智子もあまりよく知らない。
「どうしてそのお父さんがそのイギリス人の2世なんですか?」
「チャップリンは無声映画の喜劇王なんだって」
「いや、だから……」
「お前ら無声映画って観たことないの?」
智子の問いに生徒たちは戸惑った。
「あるわけないじゃないですか。ともちゃん先生はあるんですか?」
「……ちゃんとはない」
「ともちゃん先生でないんだったら私たちはないに決まってるじゃないですか」
「ああ、言われてみればそうか。チャップリンなんか知らんよな」
智子はすんなりと生徒の意見を受け入れた。
「どうして2世だと思ったのか、一応言ってみてください」
「無声映画の喜劇って全部『動き』なんだよ。パントマイムって言うんだけど、動
きと表情で観客を笑わせるんだよ」
「言葉が無理っていうことですね?」
「そう。台詞がないと物語で笑わせるのも難しいから、結局動きになるんだよ」
「土曜日のお父さんも……」
「そうだ。動きでめっちゃ魅せてきた」
「動きで魅せて……」
智子はあの日の授業を思い出す。
「最初のうちは『あれ誰の保護者だ?』って思うくらいだったんだけど、途中から
は『めっちゃリアクション取るじゃん』ってなって、最終的には『動きだけで笑わ
そうとしてくるんじゃねえよ!』って思ってた」
「そのお父さんは別に笑わそうとはしてないでしょ」
算数の授業をしながら智子は男に魅了されていたのだ。
「あの……」
恥ずかしそうに手を挙げたのは瑛太だ。
「それ、俺のお父さんです……」
瑛太の告白に智子のテンションが上がる。
「やっぱり! だと思った! だって相内も様子が変だったもんな!」
「俺の様子が? 俺は普通だったと思いますけど……」
「いや、違うね。お前は普段あんなに挙手はしない」
「ああ、それは確かに」
「しかもこっちが問題出すたびに手を挙げるから、仕方なくて2回も当てちゃった
んだぞ。いつもは1回も答えないくせによ。お父さんが来てるから張り切ったのか
よ」
微妙に非難するような言い方をする智子を生徒たちは苦笑しながら見つめる。
「本当はもう1回答えたかったんです」
「え!? 3回も答えようとしてたの!?」
瑛太が想像以上にアグレッシブであったことに智子は驚愕した。
「お前いつからそんな図々しくなったの? 生まれつき?」
「お父さんと約束をしてたんです。3回答えたら家族で温泉旅行に連れていってく
れるって」
「そうなの!? だったら事前に言ってくれてればよかったのに。知ってたら3回
正解するまで当ててやったんだぞ。惜しいことしたな」
智子は心から気の毒だという顔をする。
「いえ、3回は答えられなかったけど温泉には行けることになりました」
「よかったね。相内くん」
「うん」
祝福する真美に瑛太は笑顔で答えた。
それに対して智子は浮かない表情である。
「でも、お前はお留守番なんだろ?」
「なんでですか……」
「だって3回答えてないじゃん」
「2回でも行けるようになったんですよ」
「なんで2回で行けるんだよ! いんちきだろ!」
「うちの家のことなんだから、いんちきとかはないでしょ……」
瑛太は智子の怒りに戸惑う。
「3回答えたら行けるっていう約束でしょ!」
「ともちゃん先生はその約束、30秒前に初めて聞きましたよね……」
「そんなの関係ない!」
「あるでしょ……」
「お前は約束破るのかよ!」
「お金を出す親がいいって言ってるんだからいいでしょ」
「結局金かよ!」
静まり返る教室。
訳の分からない生徒たち。
智子は朝から機嫌が悪くなった。
それは約束よりも金が優先される社会への憎悪であった。
生きていくうえで最も大切なものはなんなのか……教師として生徒たちに教えて
いかなければならないと切実に思う智子なのであった。




