192 イカ
智子が職員室に戻るのは基本的に昼休みと3時間目のあとの休み時間の2回であ
る。
それに体育と移動教室の前後も職員室へ戻る。
それ以外に戻るのははなにか特別な用事がある時くらいで、普段はクラスの左前
方に置かれた机でテストの採点などをして過ごしている。
休み時間は15分もあるので智子の足でも余裕で職員室まで行って帰ってこられ
るのだが、面倒臭がり屋の智子はクラスの机で仕事をすることを選んでいるのだ。
生徒たちは智子が職員室へ戻らないのを確認すると彼女の机の周りに集まるので
あっという間に人だかりができてしまい仕事はなかなか捗らないのだが、それはも
う諦めている。
「クラス替えの時って仲の悪い生徒を別のクラスにしたりとかするんですか?」
珍しく質問をしたのは進介であった。
「まあ、あることはあるな。あんまり酷いといじめとか登校拒否に繋がる場合もあ
るからな。結構、気を遣うものなんだぞ」
「でも、席替えでは仲の悪い生徒を離したりはしないですよね?」
「席替えはくじだしなあ。仮に近い席になったらもう、次の席替えまで注意して見
守るしかないよな。なんだ、席替えでなんかあったのか?」
「4年の時に押川翔太っていうやつと寺川菜美っていうやつがいたんですけど、こ
の2人が相性悪いのに同じ班になってちょっと揉めたことがあったんですよ」
進介は2年前のことを思い出していた――
2学期になり進介は翔太と菜美と同じ班になってしまった。
翔太は菜美のことをよく思っておらず、同じ班になっただけで少しピリピリした
空気が漂っていた。
ただ、いくら翔太が菜美を嫌っているとはいえ普段から彼女に対して攻撃的であ
るというわけではなかった。
2人とも成績のよい生徒らしく理性的な振る舞いを行っており雰囲気が少しピリ
ついてはいたものの、その班は進介にとっては寧ろ居心地のいい場所であった。
次の席替えまでの4週間つつがなく時間は過ぎると思われたのだが、残り1週間
というタイミングで事件は起こってしまった。
その日、担任の楢崎は会議に出席するため朝から学校にはいなかった。
生徒たちは1時間目から4時間目までを自習をして過ごした。
楢崎は前日の放課後、教室の黒板に翌日の自習の時間に行うべき課題を書き残し
ていた。
1時間目…理科のプリント
2時間目…読書感想文「やまなし」
3時間目…算数の教科書20ページ以降35ページまでの問題文
4時間目…英語のプリント
課題を見た生徒たちは皆一様に読書感想文に嫌な顔をしたものの、いつものよう
に適当にこなした。
事件は3時間目、算数の授業中に起こった。
黒板には3時間目の課題は「教科書20ページ以降35ページまでの問題文」と
書かれている。
(20ページから35ページまでの問題は……全部で30問か。余裕でできそうだ
な)
慎重な性格の進介はまずは問題数を把握してから時間を確認し、そして問題に取
りかかろうとしたのだが、その時うしろの席の翔太と菜美がなにやら揉め始めたの
だった。
「20ページ以降だから21ページからやればいいんだよ!」
「20ページ以降は20ページも含むと思うわ。そうじゃなきゃおかしいもん」
翔太と菜美は「20ページ以降」の言葉の解釈で衝突をし始めたのだ。
翔太は20ページ以降に20ページは含まないとし、菜美は含むと考えた。
進介は菜美と同じく含むものだと思っていたが、翔太が本気で菜美にイラついて
いる顔をしていたので、自分を殺して全面的に翔太側に付くことにした。
「高平くんはどう思う?」
「21ページからでいいんじゃない?」
「えー、そうかなあ。おかしいと思うけどなあ」
「なにがおかしいんだよ!」
「だって『以』っていう漢字が入ってるもん。『以上』でも『以下』でも『以』が
あるとそれ自体も含むでしょ?」
この考え方は進介も同じであった。
「18才以上が成人である」といった場合は18才も成人なのだ。
おそらく普段の翔太であればこの考えに同意をしたであろう。
そうならなかったのは相手が菜美だったからだと進介は思った。
翔太は純粋に菜美のことが嫌いだったのだ。
「なんで『以』が入ってたら含むんだよ! じゃあ、イカ! イカはどうだ! タ
コは含まないけどイカは含むのか! スルメイカは含むのか!」
もうめちゃくちゃである。
真顔でそう主張する翔太に進介は笑った。
真面目な性格で先生がいなくてもふざけたことは一切しなかった進介も、この時
ばかりは口を開けて笑った。
菜美を見ると彼女も反論をする気が失せた様子でただ苦笑いをしていた――
「ということがあったんです」
「押川くんがそんなこと言ったの?」
頭がよく女子からの人気の高い翔太の感情的な言動が、結衣には信じられなかっ
た。
「普段はそんなやつじゃないんだけど、寺川とは驚くほど相性が悪かったんだよな
あ」
その時の翔太の態度が特別であったと進介は強調した。
「ともちゃん先生はどう思いますか?」
進介から話を振られた智子だったが返事はしなかった。
なんかもうどうでもよかった。
翔太のことも菜美のこともあまり知らないし。
智子は返事を期待する進介や周りの生徒たちに見つめられてもなにも答を持たな
い。
その時、チャイムが鳴り生徒たちは席に戻っていった。
授業の開始を告げるチャイムに助けられた智子なのであった。




