187 おかしな智子 後
朝からマスクをしている智子は給食の時間でさえもそれを外すことはなかった。
左手でマスクをちょっと上げては右手に掴んだちっちゃくしたコッペパンを口の
中に放り込む。
おかずは全てスプーンですくい、同じようにマスクを上げた一瞬の隙に口の中へ
入れる。
そしてすぐさまマスクを下ろし、もぐもぐする。
スープを口に運ぶと2回に1回は汁が跳ねて白いマスクを汚しているが、今日の
智子はそんなことなど気にしない。
普段は人一倍神経質で、ちょっとしたことでもすぐに顔を顰める智子が、この日
はまるでなにかに取り憑かれたかのように食と向き合っている。
その迫力に生徒たちは気圧され、ちゃちゃを入れることができなかった。
生徒たちからの目を気にすることなく、智子はマスクをしたまま食事の半分を終
えた。
依然として目の前の食に集中する智子に近付く1つの影――浜本涼香である。
涼香は6年1組の早食いクイーンとしてその名を馳せており、今日もまた1番乗
りで給食を終えたのであった。
細身の涼香が早食いであるのには2つの理由がある。
1つは「口に入れたものをよく噛まずに飲み込む」で、もう1つは「誰ともしゃ
べらず食事だけに集中する」である。
それはこの日もそうであった。
他の生徒が智子に注目し彼女の食事の仕方を見てひそひそ話をしていたその時、
涼香だけが誰とも目を合わせずに机の上のパンとおかずだけを見ていた。
つまり、この教室で智子と涼香の2人だけが給食に全集中をしていたのだ。
食器を前に片付けた涼香は、その時初めて智子がマスクをしたまま食事をしてい
ることに気が付いた。
涼香は智子に近付き、しばらく様子を観察をした。
他の生徒たちはそんな涼香が智子に変なことを言いやしないかとドキドキしなが
ら2人のことを見守っている。
サッ
パクッ
ピチャッ
智子はマスクをサッとずらし、スープをパクッと食べ、汁をマスクにピチャッと
跳ばした。
智子はそんなことなどお構いなしに、今度はちっちゃくちぎったコッペパンを口
の中に放り込んだ。
それらの一部始終を見た涼香は笑顔になり、そして智子に言った。
「ともちゃん先生、なんでマスク外さないの? 変だよー」
声をかけられた瞬間、智子はビクッとなり、そして涼香の方を見た。
笑顔の涼香、険しい顔の智子。
それ以外の生徒たちに会話はなく、固唾を飲んで2人の行方を見守っている。
「ねえ、なんでマスク外さないの? ごはんの時は外すべきだよ」
「食べる瞬間は外してるし……」
「そうじゃなくて、外して机の上に置いて食べるべきだよ。そうじゃないと、お行
儀が悪いって」
「……」
智子は一心不乱に食べることで生徒たちから質問されることを避けてきた。
その作戦は成功したかに思われたのだが、残りあと半分を切ったところで運悪く
クラス1の変人に捕まってしまったのだ。
「ともちゃん先生、マスク外したくないのなら私が外してあげる」
「いや、ちょっと待て! それは自分で!」
他人のしているマスクを強引に外すという涼香の荒業に生徒たちは震えた。
小学生から見てもそれは明らかに不躾なマナー違反であった。
智子はというと、今にも泣きそうな顔で必死に抵抗をしている。
「やめろー! 私のマスクだぞ! 私のだ! なんの権利があって! お、お、お
お前! ちょっ! やめろー!」
涼香は信じられないほどの強引さで智子のマスクを剥ぎ取った。
すると――
「あれ? ともちゃん先生、上の前歯が抜けてる?」
静まり返る教室。
反応に困る生徒たち。
智子が頑なにマスクを外さなかった理由、それは「前歯の乳歯が抜けたから」で
あった。
「ともちゃん先生、前歯がないよー。1年生みたい!」
涼香は無邪気に笑ってみせる。
普段から智子が1年生扱いされることを嫌がっているのを知っている生徒たちは
極力そのいじりはしないようにしているのだが、涼香にはその暗黙の了解は届いて
いなかった。
涼香はただただ無邪気であった。
「ともちゃん先生、抜けた歯はちゃんと屋根の上に投げた? 人生2度目だから忘
れずにやったよね!」
「そんなことするわけないだろー!!」
智子、遂にキレる。
「なんで他人のマスク勝手に取るの! そんなことしちゃ駄目でしょ!」
「だって、マナーが悪いから」
「理由があればいいの! マナーよりも大事なことが世の中にはあるの!」
「理由なんてないよ。歯が抜けただけでしょ?」
「大事でしょ! 49才にもなって歯抜けなんだぞ、こっちは! ちくしょー!」
智子の目から一筋の涙が零れ落ちた。
「なんでお前らよりあとに歯が抜けるんだよ! 違うからなこれは! 実際は40
年以上前に1回抜けてるんだからな! 2回目の乳歯だぞ!」
「私はもうほとんど大人の歯だよ」
涼香はあくまでも空気を読まない発言に終始する。
「ちょっと前からぐらぐらしてたんだよ! いつか抜けると思ってたけど、なんで
本当に抜けるんだよ、ちくしょー!」
「赤ちゃんの歯なんだから、抜けるのは当たり前だよ?」
「赤ちゃんの歯って言ってんじゃねえよ! ちくしょー!」
智子は自分の教え子よりもあとに乳歯が抜けたことが悔しかった。
教え子たちが笑った時、永久歯が揃っているのを見ると妬ましかった。
教え子たちの前で歯の抜けた顔を晒すのは、智子のプライドが決して許さないの
だ。
前歯の抜けた顔を見られないように朝からマスクを外さずに過ごしてきたのに、
こんなところで……。
こんなことなら給食の時間だけでも校長室に立てこもればよかったと思う智子な
のであった。




