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174 高齢化社会の縮図

 土曜日の午前中、智子は通り沿いの皮膚科に来ていた。


 その皮膚科は日曜と祝日と土曜の午後は休診であり、平日の夕方はやっているも

のの仕事で疲れた智子には通院をする体力がない。


 必然的に智子が来られるのは土曜日の午前中だけということになる。



 智子は仕事のある平日よりも1時間遅い8時に起きて、診察の始まる9時に受け

付けに診察券を提出した。


 大雨の日や酷寒の日は1番乗りのことも稀にあるが、たいていは4番目か5番目

くらいであった。


 

 診察券を出しマイナ保険証の手続きを終えると、智子は待合室の空いた席に座り

本を読んで呼ばれるまでの時間を過ごすことにしている。


 待合室で読書をするのは子供の身体になってからのことだ。


 落雷前はどこにでもいる平凡なおばさんだったので、目を閉じて過ごしていても

誰も智子のことを気にもとめなかったのだが、身体が1年生になってからは1人で

座っているとやたらと声をかけられるようになってしまった。


「お嬢ちゃん、1人で来たの?」

「お嬢ちゃん、お母さんは?」

「お嬢ちゃん、滝小学校の生徒さん?」

「お嬢ちゃん、1人で静かにできてお利口さんだね」


 声をかけてくるのは決まって高齢者だ。


 それも杖を突いたり歩行器代わりのカートを押しているような、とびきりの高齢

者たち。


 どうやら人間というのは年を取ると幼女への愛を抑えることができなくなるもの

らしく、智子がなにもせずにいると必ず声をかけてくる。


 決して悪い人たちではないのだが、残念ながら智子にとってはそれは鬱陶しいこ

とであった。


 智子は見ず知らずの他人との会話を楽しめるような性格はしていないのだ。 


 だから智子は本を読む。


 読書に集中しているふりをすることが高齢者除けに効果があるのだ。


 それでも話しかけられることはあるが、その回数はなにもしていない時よりも圧

倒的に少なくなっていた。


 だから智子はどんなに疲れていても持ってきた本がどんなに面白くない内容だと

しても、自分の名前が看護師から呼ばれるまでは顔を上げることはなかった。



 この日智子が家から持ってきた本は、20年前にアメリカで起きた殺人事件を題

材にしたノンフィクションであった。


 智子は20代の頃から、作り物の小説よりもノンフィクションを好んで読むよう

になっていた。


 それが、最近はなかなかページが前に進まないことに智子は気が付いた。


(なんでだろ? この本、全然終わらないな……) 


 落雷前の智子は週末に本を読むことが多く、最低1冊、気分が乗れば3,4冊は

土日だけで読み終えていたのだが、今の彼女にとってそれは想像もできないほどの

ハイペースである。


 なにせ今手にしている本は夏から読み始めており、かれこれ既に3ヶ月が経とう

としているにもかかわらずまだ4分の1にも達していない。


 このままで行くと読み終えるのにあと1年以上もの時間が必要で、それはもう読

んでいないのとほぼ同義である。 


(次回からパズルにしようかなあ……)


 智子が次からの待合室での時間の潰し方を思案していると、斜め前の席に座る高

齢男性が隣の付添人に話しかける声が聞こえてきた。


「今日は朝からパンばっか食ってる。夜はごはんにせな」


 80代、もしくは90才を超えているかもしれないその男性は智子にも聞こえる

ような大きな声で言った。


 時刻は9時過ぎ、まだまだ朝なのだが早起きな高齢者にとっては智子にとっての

昼過ぎくらいの感覚なのかもしれない。


「パンばっかり食べてる」ということは、起きてまずパンを食べ、そして出かける

前にもう1度パンを食べたということだろうか。


「夜はごはん」ということは、昼もパンのつもりなのだろうか。


 智子は想像するだけで笑みがこぼれた。


  

 智子が斜め前のお爺さんにほっこりしていると、今度は智子の2つ左に座った高

齢女性が智子の隣の中年女性に話しかけた。


「あんた何番目?」

「私は4番か5番です」

「今、診察室に入ってる人は何番目?」

「1番目の方です」

「まだ1番目? 長いなー」

「今日が初診の方みたいです」

「そうかー。初めての人はちゃんと診るからねー」 


 壁にかかっている時計の針は9時30分を指している。


 仮にまだ1人目だとすると確かに長いと智子も思った。


 と同時に、時間に余裕のある高齢者にはできれば土曜ではなく平日に受診しても

らいたいとも思った。


(私たちと違って平日も働いていないんだし。急にできた湿疹とかなら仕方がない

けど……) 



 智子が口には出さない不満を心に抱いたその時、斜め前のお爺さんが再び口を開

いた。


「今日は朝からパンばっか食ってる。夜はごはんにせな」


 智子は思わず顔を上げた。


 ミズノの白と紺のスニーカーを履いたそのお爺さんは杖を手に持ち、口を開けて

いる。


 その顔は決して笑いを取ろうとしたというふうには見えない。


 ただ智子だけが笑いを噛み殺している。


(なんで2回言うんだよ! せめて2回目は文言を変えろよ! 一語一句違わずに

言ってんじゃねえ!)


 智子が心の中で見知らぬお爺さんにつっこんだその時、今度は2つ隣のお婆さん

が口を開く。


「今、診察室に入ってる人は何番目?」


 隣のおばさんが返事する。


「1番目です」

「1番目?」

「今日が初診みたいです」


 ここでも繰り広げられる再現VTRに智子は驚愕した。


(わざとか!?) 


 すると今度は斜め前のお爺さんが口を挟む。


「初めての人はちゃんと診るから」


 智子は2人の顔を見比べるが、2人は目を合わせてはいない。


 お婆さんの正面は空席で、お爺さんの正面には診察室の扉がある。


 会話をするどころか、お互い意識すらしていない。


 これこそが、「高齢化社会の縮図」であると智子は思った。


 これからの日本社会はいま以上に高齢者が溢れることになる。


 そうなれば、いたるところでこのようなことが起こるのだ。


 耳の遠い高齢者は大きな声で言葉を発する。


 それが偶然別の高齢者の耳に入り、そして回答をする……。



 周りが気を遣わなくとも、世界は廻る。


「これでいいのだ」と思う智子なのであった。 

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