17 メガネザルと豚
「メガネザル! ボールとってくれ!」
「メガネザル! こっち! パス!」
休み時間、智子が校庭の側を通りかかると「メガネザル」という単語が耳に入っ
てきた。
教室でもたまに聞くこの単語は、どうやら健太を指すあだ名であるようだ。
ここ数年、「いじめにつながる恐れがある」との理由から、あだ名を禁止する小
学校があるという。
滝小学校ではそこまでの措置は取ってはいないが、「メガネザル」という動物名
を付けられた生徒がいい気分だとは思えない。
(一度、本人たちに話を聞いておかなければならないな)
智子はボール当てをしている男子たちに近付いた。
「おい、田中」
「ともちゃん先生、どうしたの?」
智子が健太に声を掛けると、遊んでいた他の男子たちも続々と集まってきた。
「ともちゃん先生、どうしたー」
「ともちゃん先生もボール当てる?」
「いや、私は遠慮しておく」
「手加減するけど?」
「結構だ。やらないから」
「じゃあ、なに?」
「メガネザルってたまに聞くけど、それって田中のあだ名か?」
智子は健太だけではなく、その場にいた男子全員に聞いた。
「そう。こいつのあだ名。1年ちょっと前からかな」
「そんな前からなのか。で、なんでメガネザルなんだ? 好きなのか? メガネザ
ルが」
「そんな訳ないじゃん」
健太は笑って答えた。
「じゃあ、なんでメガネザルなんだよ。田中はどう見てもメガネザルって感じじゃ
あないだろう。メガネザルっていうのは……あれ? メガネザルってどんなだ?」
智子は首を傾げた。それに合わせて、生徒たちも考え始める。
「確か、身体はちっちゃいけど眼だけは異常にでっかい猿だったと思うけど」
朝陽が答えた。朝陽は成績が良いため、彼の知識に反論する生徒はいない。
「身体はちっちゃくて、眼はでかいんだな? だったら、田中とは正反対じゃない
かよ。こいつ、でぶで糸目だぞ」
「先生が生徒にでぶってはっきり言うなよー」
健太の言葉に笑いが起きる。
続いて朝陽は言った。
「こいつ4年の時にある日突然、眼鏡をかけて登校してきたんですよ」
「えっ、そうなの? お前、視力悪いの?」
智子は健太に聞いた。
「いや、そうでもないんだけど、眼鏡があった方が見えやすいから」
「今はしてなくても大丈夫なのか? どうする? 前の方の席に移動するか?」
「後ろでも大丈夫。見えない訳じゃないから」
「本当に見えてるんだな? 前の席が嫌だとかそういう理由じゃないな?」
「違うって。見えてるって」
「それならいいんだけど。身体検査の時に視力も計ってるよな? 田中の視力って
いくつだったっけ?」
「両目1,5」
「めっちゃ見えてんじゃん!」
「だから見えてるって言ってるだろ?」
智子の大袈裟な驚きに怪訝な表情をする健太。
「最近の子って1,5でも眼鏡するの?」
智子は朝陽に尋ねた。
「普通はしないよ。聞いたら、こいつの家って家族全員が視力2,0だから親がビ
ビッて眼鏡買ったらしい」
「眼鏡ってビビッて買うものなのか……」
朝陽の説明を聞いても、智子にはいまいちピンとこなかった。
「親じゃねえよ。婆ちゃんがすぐに買えって言ったんだよ」
「お婆ちゃんか。孫のことが心配だったんだろうな」
「うん。婆ちゃんも両目2,0だから」
「お婆ちゃんもなの!?」
健太の口から飛び出した衝撃の事実に、その場にいた全員が驚愕した。
「お婆ちゃんも視力2,0なの?」
「うん。そうだよ」
「ちなみに、そのお婆ちゃんて今何才のなの?」
「婆ちゃんとお父さんが2人とも20才で結婚してて、俺が今11才だから……何
才だ?」
「おそらく50代か。思ったより大分若いな。それでも両目2,0はすごいぞ。一
般的には40代で老眼って始まるからな」
生徒の間から「へー」という声が上がる。
「俺だけ目が悪いんだよー」
「お前も別に悪くはないけどな」
健太は何故か半笑いで空を眺めている。
「話を戻すけど、田中がメガネザルって呼ばれる理由は分かった。で、そのあだ名
を本人はどう思ってるんだ?」
「え? 俺? なにが?」
「なにがじゃないよ。自分のあだ名がよく分かんない動物でいいのかって聞いてる
んだ。いいのか? 南の猿だぞ?」
「別にいいよ。あだ名なんかなんでも」
健太は全く気にしていないかのように見える。しかし、だからといって智子はこ
こで引き下がる訳にはいかなかった。なぜなら、人間というのは必ずしも本心を表
に出すとは限らないからだ。
笑っていても、それは気の弱さからくるものかもしれない。もしかしたら、弱さ
を見せたくないために気丈に振る舞っているだけなのかもしれない。それらの可能
性がある以上、教師は時間を掛けて子供たちと向き合うしかないのだ。
智子は目先を変え、自分の少女時代の話をすることにした。
「私がこの学校に生徒として通っていたころ、まだ昭和だったあのころ、太った生
徒は必ず『ぶた』と呼ばれていた」
「ひでえな!」
「まあ聞けよ、国木田。『ぶた』と呼ばれていたとはいえ、それは面と向かってで
はない。みんな、陰でこそこそ呼んでいたんだ」
「陰湿じゃん!」
「話はちゃんと最後まで聞け、光井。私たち女子は学年一の巨漢である男子の斉藤
のことを表では『さいとうくん』裏では『ぶた』と呼んでいた。それがある日、私
たちはあることを知ることとなった。それは、同級生の男子たちも学年で一番太っ
た女子の清田さんのことを陰で『ぶた』と呼んでいたのだ。表向きは「きよた」と
呼んでいたのにもかかわらず……」
「……それで?」
「以上だ」
「えー!!」
突然打ち切られたオチの無い話に、生徒たちは驚きの声を上げた。
「なんだよその話!?」
「太った人間を陰でぶた扱いしたっていう、単なる陰湿な昭和のエピソードじゃな
いかよ!」
「そうだ」
「そうだじゃないよ! どこに教訓があるんだよ!」
「……教訓て、いる?」
「いるだろ! 教師なら話に思いを込めろよ!」
「そうなの?」
智子はきょとんとしている。
「まあ、でもあれだ。田中だってぶたって呼ばれたら嫌だろ?」
「ぶたは嫌だなあ」
「だったらメガネザルも同じだろ。両方所詮は畜生なんだし」
「急に動物ディスり出した!?」
「じゃあ、そういうことだから。うちのクラスでは人間を動物に例えるの禁止な。
破ったら校庭100周な」
「あだ名使ったら、体罰加えられんのかよ……」
問題を解決した智子は、教室に向けて歩き始めた。
そんななか、いまいち納得のいかない男子たちの視線が、智子の背中に集まるの
だった。