163 ゆっくりと無表情の智子はプールの底に沈んだ
智子が小学生の時、水泳の授業は7月で終了していた。
しかし今は温暖化の影響であろうか、2学期になってもおよそ1か月間その授業
は続いている。
今日は今年度最後の水泳の授業で、「着衣水泳」が行われていた。
着衣水泳とは池や川などに落ちてしまった場合を想定し、普段着のままプールに
入る訓練である。
訓練内容は大きく分けて3つ、「歩く」「泳ぐ」「浮く」である。
生徒たちは2人1組でお互い確認をしながら真剣な表情で授業を受けている。
「コツはむやみに泳がず落ち着いて、まずは浮くことを重視する。浮く場合は呼吸
がしやすい上向き、背泳ぎの姿勢になりましょう!」
市から派遣されてきた指導員が声を張り上げる。
生徒たちはバディと話をしながらちょっとずつ着衣水泳に慣れていった。
「湊川先生、まずは歩くだけでいいです。浅い所からは出ないでください」
3組担任の佐久間は水の中の智子に声をかけた。
智子は真剣な表情で胸ほどの水深の中を慎重に進む。
去年まではプールサイドで生徒たちを見守る立場だったが、今年は身体が縮んで
初めての着衣水泳だったため、校長の判断で生徒たちに混じって授業を受けること
になっていた。
本気で嫌がった智子であったが校長の命令に逆らうことはできず、仕方なく教え
子たちとともに、服のままプールに入った。
指導員は、6年生の授業なのにどうして1人だけ下級生がいるのだろうと不思議
に思っていた。
「湊川先生、落ち着いてください。私たちが見てますから溺れることはありません
ので」
佐久間が繰り返し声をかけたのは、智子が水の中で小刻みに震えていたからだっ
た。
佐久間はそれが寒さのせいなのか、それとも恐怖のせいなのか判別がつかなかっ
た。
他の生徒たちに寒がる様子がないことから佐久間は後者であると判断し、引き続
き声をかけることにした。
「湊川先生は身体が小さいですから水の流れの影響を受けやすいですので無理はし
ないでくださいね」
口を真一文字に結んだ智子は前を向いたまま、うんうんと佐久間の言葉に頷く。
智子は驚くほどに一所懸命だ。
智子がこれほどまでに一所懸命な理由、それは「プライドがかかった戦い」だと
思っているからである。
智子は子供の頃から運動神経が良くもなければ悪くもない平凡な人間であった。
だから着衣水泳もそこそこならばできる自信があった。
しかし、1年生の身体能力になってしまった今の自分が、6年生の教え子たちと
同等以上の泳ぎができるかというとそれは微妙なところであった。
着衣水泳で最も重要なこと、それは「技術」ではなく「体力」である。
どんなに落ち着いていても、どんなに技術があろうとも、体力がなければ岸に辿
り着くことなど不可能であろう。
プールの中を歩いていてもそれは同じことである。
どんなに腰を下ろし横綱のような摺り足で歩いても、体力が続かなければ水にの
まれてしまうのだ。
(生徒たちの目の前で溺れることなどあってはならない……)
智子は人知れず、決死の覚悟でこの授業に臨んでいたのであった。
「1度プールサイドに上がりましょうか」
佐久間に促され、智子は水から出ることにした。
1度も足を取られることなく、およそ12メートルを歩き切った智子は満足気な
表情で生徒たちの方を見た。
(みんなも順調に歩いてるのかな)
生徒たちを見た瞬間、智子は深い絶望感に襲われることになる。
プールの反対側の深い方で、ほとんどの生徒たちがぷかぷかと浮いているではな
いか。
智子の腰は砕け、ざらざらのプールサイドにへたり込んだ。
「湊川先生、しばらく休憩ですので休んででください」
佐久間は智子が疲れて座ったと思い込んでいる。
「なんで……」
「え?」
「なんであんな簡単に浮くの!?」
智子は悔しくて歯を食いしばる。
「私は歩くのでやっとなのに!」
今にも泣き出しそうな智子に佐久間は優しく声をかける。
「湊川先生も背泳ぎはできるでしょ? だったらあれも余裕ですよ」
「でも私、1年生の時は背泳ぎできなかったもん!」
「ああ、確かにスイミングスクールに行ってないと1年生では無理かもなあ……」
「やっぱり! それもう無理って言ってるようなもんだから!」
プールサイドで待機をしていた生徒たちは向こう側で大声を上げる智子のことを
見つめていた。
相談の結果、水中にいる真美に代わり朝陽と颯介が智子に話を聞きにいくことに
なった。
ともちゃん学級では生徒が先生をなだめにいくということが頻繁にあったので、
もはや慣れたものである。
「ともちゃん先生、どうしたんですか?」
「あぁ!?」
智子はいきなりの喧嘩腰である。
「大きな声が向こうまで聞こえてたんですけど」
「なんだよ、勝者の余裕かよ! あ!?」
「えー……」
朝陽と颯介はなぜ自分たちが恫喝されなくてはいけないのかが、さっぱり分から
なかった。
「俺たちって勝者なんですか? それはどうして?」
「だって浮いてるじゃん! 私が歩くのに必死なのにお前らぷかぷか浮いてるじゃ
ん!」
「浮くだけなら、ともちゃん先生にもできるんじゃないですか?」
「私は1年生の時はまだ背泳ぎできなかったの! なのにお前らは! 見ろ! 高
平ですら余裕で浮いてる!」
着衣で上向きに浮いた進介が水の流れで智子の方へやってくる。
「それ以上こっち来たら、やってやるからな!」
「浮いてるだけの進介に、なにをやるんですか……」
「ムカつくー! なんで高平にできて私にはできないんだよ! ちきしょー!」
「進介は泳ぎが遅いだけで苦手ではないですよ?」
「それもムカつく! 遅いのになんで溺れずにちゃんと進むんだよ!」
「先生が生徒にムカつくとか言っちゃ駄目でしょ……」
颯介は呆れながら智子に指摘をした。
「それ以外にも体育苦手なやつが浮いてるじゃん!」
「俺たちは着衣水泳、今年が初めてじゃないですからね」
「やっぱ不利じゃん! 私、不利じゃん!」
朝陽と颯介は智子と競っているつもりはなかったので「不利」という感覚がいま
いち理解できなかった。
「ともちゃん先生は浮くのには挑戦したんですか?」
「いや、まだ休憩中だったからね」
朝陽の問いに佐久間は答えた。
「ともちゃん先生、1回浮いて見ましょうよ。着衣水泳は背泳ぎができなくても上
手くやれば浮きますから」
「……そうなの?」
「浮きますよ。変に身体に力を入れず、リラックスしてれば簡単に浮きます」
「ほんとだな?」
智子は振り返らず、朝陽の顔を見ずに聞いた。
「大丈夫です。自分を信じてください」
颯介は朝陽に対して「そんなの言い切っても大丈夫か?」と思ったが、朝陽は気
にせずに続ける。
「服が浮きますから。それに身を任せてればいいんですよ。楽勝です」
朝陽の言葉を背に受けた智子は、梯子は使わずにプールサイドから一気に飛び込
んだ。
飛び込みは生徒には禁止している行為であるが、智子は教師なのでOKである。
顎のあたりの深さにまで進んだ智子は、まずは顔を上に向ける。
プールにいる全員が固唾を飲んで智子を見守っている。
両腕の力を抜いた智子は、そのまま蹴り上げるように足を上げ、水面に浮いた。
「浮いた! あ……ちょっと足が下がってる?」
水面近くまで浮いたと思われた智子の両足が少しずつ沈んでいく。
「口が水に入った? でもまだ鼻で呼吸ができるか……鼻も駄目?」
智子の鼻の周りにぶくぶくができ始め、そしてそのままゆっくりと無表情の智子
はプールの底に沈んだ。
「ともちゃん先生!」
智子はポロシャツ短パン姿でプールに沈んだ。
中に水着は着ているが、服を脱ぐことなく静かに沈んだ。
靴も靴下も履いたまま、そのまま静かに沈んだ。
今年度最後の水泳の授業はこうして幕を閉じたのであった。




