16 キャメルクラッチ
3時間目の終了を知らせるチャイムが鳴った。
運動場へ出て遊ぶもの、お手洗いへ行くものなど生徒たちは各自ばらけていく。
4月も終わりに近付くと、趣味の合う者同士が集まり、クラス内でいくつかのグ
ループが形成されていた。
智子は職員室へは戻らず、教室の机で生徒たちから集めた宿題の丸つけをして過
ごしていた。
「ともちゃん先生、あれ」
「ん?」
智子に声を掛けたのは荻野美月だ。彼女の視線の先では健太がうつ伏せになった
昌巳の上に乗り、「キャメルクラッチ」をしかけていた。
「なんだ、あれ?」
「さあ……。プロレスかなあ……」
智子も美月もプロレス技のキャメルクラッチを知らなかった。
「あれ、大丈夫なの?」
「私、分からない。ともちゃん先生はどう思う?」
「さあ……」
キャメルクラッチを知らない2人には、それがどういう状況なのか判断ができな
かった。
上に乗った健太は自慢げな顔をしている。それを見る周りの男子たちは大爆笑を
している。技を掛けられている昌巳の顔は、上を向いているためによく見えない。
「ともちゃん先生、止めに行った方がいいんじゃない?」
「そうなの? 子供の身体って柔らかいから、あれくらいなら大丈夫なんじゃない
の?」
「でも、いじめだったら大問題だよ?」
「ああ……。それはそうだな」
周りが楽しそうにしているからといって、それが遊びだとは限らない。
智子は当事者の気持ちを確認するため、大はしゃぎをする男子たちに近付いた。
「おい、田中」
「え?」
笑顔で昌巳の首を引っ張り続ける健太が間抜けな声を出す。
「えっじゃないよ。それはなにをしてるんだ? プロレスか?」
「うん。これ、キャメルクラッチ」
「キャメル……なんだそれ?」
「プロレス技だよ」
「やっぱ、プロレスか。で、それは大丈夫なのか?」
「大丈夫ってなにが?」
「やられてる松田は痛くないのかって」
「俺はやられたことないけど、大丈夫じゃない? 痛けりゃ言うでしょ」
「確かにそうだよなあ。おい松田、大丈夫か? 痛かったら素直に言えよ」
そう言いながら智子は昌巳の顔を覗き込んだ。
するとそこには、鼻水を垂らし宙を見つめる真っ赤な顔の昌巳がいた。
(あ、これ駄目なやつだ)
本能的に察した智子は、すぐに昌巳を健太から引き剥がしにかかった。
「これは駄目なやつだ……多分」
「大丈夫っしょ」
にやけながら健太は言った。
「いやでも、鼻水でてるし」
「昌巳って、そういう奴だよ?」
「まあ、そう言われればそうか。おい松田。お前、大丈夫なんだな?」
昌巳の眼球がきょろりと動いた。
(こいつ、すごいこっち見てくる……)
智子は、昌巳の何かを訴えかけるような目に底知れぬ気持ち悪さを感じた。その
気持ち悪さは、その場から逃げ出してしまいたくなるものだったが、智子は逃げな
かった。教師としての職務を全うするために、智子はなんとかその場に留まった。
「田中、やっぱりやめとけ。松田、苦しそうだ」
「そう?」
健太はようやく昌巳の首から手を離した。
技が解かれうつ伏せになった昌巳は、ひゅーひゅーと音を立てて呼吸を始めた。
「大丈夫か?」
智子の問い掛けにも一切答えず、昌巳は必死で呼吸を続けた。
それまで笑っていた周りの男子たちは、一様に「そうなの?」という顔をしてい
る。
しばらくして呼吸が落ち着いた昌巳は身体を起こし、まずは健太に抗議をした。
「なにやってるんだよ! 息ができないんだぞ!」
「俺、そんな本気ではやってないし……」
「そういう問題じゃないんだよ! 息ができないんだよ!」
昌巳は真剣に怒っている。
そんな昌巳を見て、6年1組の担任と生徒は初めて、「キャメルクラッチをされ
ると息ができなくなる」ということを知った。
「息できなくなるのか。ストレッチみたいなもんだと思ったけどなあ」
「ともちゃん先生、なんでもっと早く止めないんだよ! 死んじゃうだろ!!」
智子の何気ない一言をきっかけに、昌巳の怒りの矛先は智子へと向かった。
「いや、止めただろ。私」
「もっと早く! もっと早く止めろよ!」
「結構早かったと思うぞ。な?」
智子の問い掛けに同意する野次馬たち。
「早くないだろ! なんで来てすぐに止めないんだよ! なんでちょっとの間会話
してんだよ!」
「そりゃ、話は聞くだろ。なにしてるか分からなかったんだから」
「プロレス技だって認めた時点で止めろよ!」
「あのな……世の中の女はお前が思ってるほどプロレスに詳しくはないんだよ。男
の尺度で物を計るな」
「そもそも、やってもいいプロレス技なんて無いだろ!」
「だから知らないって言ってるだろ。知らないのに良い悪いの判断なんてできない
だろ。プロレスを全否定したら、プロレスごっこ自体が全部禁止されることになる
んだぞ? それでもいいのか? そうしたら、ジャイアント馬場のものまねもでき
なくなるんだぞ?」
「誰だよそれ! 知らねえよ!」
「え……ジャイアント馬場知らないの? お前らってそんな世代なの?」
周りを見ると全員が首を傾げている。
「ジャイアント馬場知らないか……。じゃあ、ジャンボ鶴田は?」
「知らないよ! というか、ともちゃん先生俺たちよりプロレスに詳しいだろ!」
「詳しいわけないだろ? そうじゃなくて、昔はプロレスラーが普通のテレビにも
出てたんだよ。だから、なんとなく名前くらいは知ってるんだよ。獣神サンダーラ
イガーとか」
「そんだけ知ってたら、キャメルクラッチも知ってるだろ!」
「……キャメルクラッチ?」
「今初めて聞きました、みたいな顔やめろ!」
昌巳の声が廊下にまで響く。
「つまり、短くまとめると『キャメルクラッチは息ができなくなるからやめろ』っ
てことだな? それでいいな?」
「そうだよ……」
智子は小さく溜め息を吐いた後、周りの生徒たちに言った。
「みんなよく聞けー。今後、このクラスではキャメルクラッチは禁止なー。ふざけ
てとかも駄目だぞー。松田、これでいいな?」
智子は昌巳に問い掛けたが不機嫌な顔をするだけで彼からの返事は無かった。
「市川いるかー」
「はい」
「今ここにいない者もいるから、終わりの会で改めてみんなに伝えてくれ。このク
ラスではキャメルクラッチは禁止だ」
「はい、分かりました。でもそれ以外のプロレス技はいいんですか? どうします
か?」
「あー、そうだな……」
智子は昌巳を見た。不満気な顔で腕を組んでいる。
「そうだな……もう面倒だから全部禁止だ。いいなお前ら。お前らはプロレスラー
じゃない。プロレス技をやりたい者はプロレスラーになってからにしろ。悪いけど
馬場チョップも禁止にする。ちゃんと守れよ」
そう言うと智子は自分の席に戻り、丸つけを再開した。
そんな智子を見ながら、生徒たちは「馬場チョップってなんだよ……」と心の中
で呟くのだった。




