150 パワハラ前提の最低のジョーク
それは算数の授業中のことだった。
教科書の計算問題を解くように指示された生徒たちが真面目に向き合う中、いち
早く解き終えた颯介が口を開いた。
「ともちゃん先生」
「ん? なんだ、光井」
「昨日、古本屋で『クラス運営を円滑に行う秘訣 教師のためのジョーク集』って
いうのを見つけたんですけど、知ってます?」
颯介の質問に智子は少し考える。
「あー……。その本かは分からないけど、そんな感じのはなんとなく知ってる気が
する。若い頃に先輩からもらったかもしれない」
「それ、どんな本?」
春馬は颯介に尋ねた。
他の生徒たちももはや計算問題どころではなく、颯介がみつけたという「ジョー
ク集」に興味津々だ。
「古い本なんだけど、書かれてるジョークはほとんど親父ギャグなんだよ。ダジャ
レとか」
「なんだよそれ。親父ギャグで円滑にはならないだろ!」
生徒たちは声を上げて笑う。
「それ以外には?」
「教室でできるミニゲームとかがあって、あとは『恐い顔をして教室に入る』って
いうのもあったな」
「恐い顔をして教室に入る? それのどこがジョークなんだ?」
「恐い顔で生徒に緊張感を与えて、パッと笑顔になるんだってさ。こんなの面白い
のかね?」
颯介がそう言った瞬間、一部の生徒たちがなにかに気付いた顔をした。
「赤瀬先生、それやってた!」
声を上げたのは朝陽だった。
3月まで赤瀬学級だった生徒たちは皆、そのことを思い出し笑顔になる。
「やってた! 赤瀬先生、何回かやった気がする!」
「多分、学期ごとに3回やったんじゃないかな?」
「そうかも、懐かしい!」
真美と結衣は別の学校に行ってしまった赤瀬のことを思い出し懐かしむ。
「赤瀬先生ってそんな古いことやってたの?」
智子は赤瀬のジョークのセンスにちょっとだけ笑ってしまった。
赤瀬学級だった生徒たちは笑顔ではしゃぎ声を上げている。
そんな中、深刻な表情で固まる男子が1人いることに智子は気が付いた。
高平進介だ。
彼もまた赤瀬学級の一員だったのだが、なぜか懐かしむ流れに乗っておらず、1
人いつもの真顔である。
(あいつ、なんだよ……。なんで「赤瀬先生あるある」に笑ってないんだよ!)
智子は迷った。
ここで進介に触れるべきか、それとも無視して算数の授業に戻るべきか。
進介は元々「死んで腐った魚みたいな顔」をしていると智子は思っている。
今のその顔にも深い理由はないのかもしれない。
それでも智子は無視することはできなかった。
それは進介を気遣ってではなく、死んで腐った魚みたいな顔をしている理由を知
りたいという自らの好奇心が抑えられなかったからであった。
「おい、高平。お前も赤瀬先生のクラスだったよな?」
「はい」
「他のやつらみたいに懐かしくはないのか? それとも、もう忘れた?」
「いえ、覚えてます。忘れるわけないです」
聞いた瞬間、智子は背筋がゾクッとした。
進介の「忘れるわけないです」の言葉から心が感じられなかったのだ。
「なに? じゃあなんで他の子と反応がそんなに違うわけ? 嫌なんだけど」
「ともちゃん先生はどう思いますか?」
「なにがだよ……」
「担任の先生が恐い顔をして教室にやってきて、それが一気に笑顔になったら面白
いですか?」
「面白いかなあ……」
智子はそれをやられたことがなかったのでピンとこなかった。
「たいして面白くはないですよ。もしも佐久間先生がやっても、ちょっとは笑いが
起こるかもしれないけど、その程度ですよ。でも去年の5年3組では爆笑が起こっ
てたんです」
「だったら、佐久間先生がやってもそうなってたんじゃないの?」
「ならないです。なぜならギャップがないからです」
「ギャップ?」
クラスメイトたちは黙って智子と進介の話を聞いている。。
「普通の先生は教室に入ってくる時、恐い顔なんてしないんです。だから生徒たち
は、『なにがあったんだろう』って思うんです。それが先生のジョークだと分かっ
た時は、『なんだよそれ』って思うんです」
「そんなもんかなあ……」
「でも、赤瀬先生は違いました。あの人は恐い顔で教室に入ってくることが頻繁に
あったんです。ぼくたちは1年中、あの人から怒られ続けたんです。だからぼくた
ちは、『またなにかで怒られる』って思ってビクビクしてたんです。その状態から
の笑顔だから、ほっとして笑いが起こるんです」
進介の分析は説得力のあるものだった。
赤瀬学級でなかった者も廊下にまで響き渡る赤瀬の怒鳴り声を聞いていたので、
その状況が容易に想像ができた。
「そんなのパワハラ前提の最低のジョークですよ」
進介は吐き捨てるように言った。
赤瀬の話題で盛り上がっていた生徒たちは、進介が赤瀬に対して批判的な言動を
取っているのが理解ができなかった。
進介以外の生徒たちにとって赤瀬は「情熱的」で忘れがたい「恩師」なのだ。
しかし進介にとっては赤瀬はそういう存在ではない。
そのことに気付いていた智子はいずれ来るかもしれない「決着の時」に備えなけ
ればならないなと思いつつ、今日のところは算数の授業を進めるのであった。