149 べんべ
休み時間、男子たちが深刻そうな顔をしているのを智子は見逃さなかった。
集団を形成しているのは、朝陽、蓮、陸斗、颯介、進介、いつものメンバーだ。
智子の第六感が脳内で囁く、「あいつらなんか悪いことを隠しているぞ」と。
一目見て分かるくらい、5人の顔色は優れないのだ。
最近、林間学校の「抱っこ写真」の件でイライラすることの多かった智子は、ス
トレスの解消にもなるかもしれないと思い、5人に話しかけることにした。
「迷える子羊たちよ、今日は将棋はしないのかい?」
最近6年の男子の間で将棋が流行っており、今も太一と優太、拓海と春馬が別の
机で対戦をしている。
「うん。今は別に……」
「なんだよ暗い顔して。マジで深刻な悩み? だったら聞くのやめるけど」
普通の教師であれば生徒の悩みが深刻であればあるほど心配になるものだが、智
子は責任感も7才児並みなのでそうではなかった。
深刻な悩みは家に帰って親に相談しろと思っていた。
「進介が昨日の夜にやっちゃったみたいで」
「ん? 高平? なにやった?」
進介はいつもの通り、死んで腐った魚みたいな顔をしている。
「お前、落ち込んでてもいつもと顔が変わらないってすげえよな。ぷぷぷっ」
「ともちゃん先生、笑わないでくださいよ」
「だってこいつ、明るい顔の時がないんだぜ。逆福男みたいでおもしれえじゃん」
進介を馬鹿にした智子の態度に5人はついつい笑ってしまう。
「笑ったぞ。ということは、そこまで深刻な話じゃないんだな? だったら言って
みろ。聞いてやる」
智子のおかげで笑顔の戻った進介は昨日の夜の話を始めた。
「昨日の夜、駅前の用事を済ませたあと走って家に帰ったんです。その時に路上駐
車してた車のサイドミラーに当たってしまって、壊しちゃったんです」
「あらー、壊しちゃったか。怪我はしなかったか?」
「ぼくは大丈夫だったんですけど、ミラーは完全に変な方を向いてました」
「人間なら脱臼だな」
「それだけならいいんですけど」
「よくねえよ」
与えた被害を過小評価する進介に智子はつっこんだ。
「脱臼がいいんなら、もうなんだっていいだろ」
「実はその車、ドイツ車だったんです」
「あー……」
智子は胸がざわざわした。
ドイツ車といえばメーカーによっては恐いお兄さん御用達の可能性もあり、その
ことは日本人なら子供だって知っている。
智子は恐る恐るどこのメーカーの車なのかを聞いた。
「それってドイツのどこの車? フォルクスワーゲン?」
「BMWです」
「なんだ。『べんべ』か」
智子は心から安堵した。
「よくはないけど、よかったな。べんべなら最悪の事態は避けられそうだ」
「……」
「ん? どうした?」
「さっきから言ってる、『べんべ』ってなんですか?」
「え? BMWだろ?」
「はい」
「だったら、べんべじゃん」
「?」
生徒たちは智子の言う「べんべ」の意味が分からなかった。
今の子供にとってBMWは「ビーエムダブリュー」であり、「べんべ」ではない
のだ。
「お前らべんべって言わない? BMWのドイツ読みだよ」
「分からないですよ。ぼくたちドイツ人じゃないんで」
「だったら英語も使うなや。日本語で言えよ」
「BMWって日本語でなんて言うんですか?」
「知らねえ。私にとっては『べんべ』だからな」
智子は生徒たちを突き放した。
智子世代でも「べんべ派」と「BMW派」は共存しており、みんながみんな「べ
んべ」と言っているわけではない。
しかし智子は一貫して「べんべ派」であった。
なぜなら響きに愛嬌があるから。
時代がどう移り変わろうとも、智子にとってべんべはべんべなのであった。