142 智子の生き方
「おーい、仁藤」
帰りの挨拶が済んだあと、智子は陸斗に声をかけた。
「なんですか?」
「ちょっと、このあと残ってくれ」
「はぁ」
よく晴れた日、少年野球組は大きな声でこのあとの草野球の打ち合わせをしなが
ら教室を出ていく。
野球に興味のない者やそもそも外での遊びを好まない者も、みんな笑顔で教室を
あとにする。
そして教室には智子と陸斗だけが残された。
「これなんだけど、うちに帰ったら御両親に渡してくれ」
智子はそう言いながら白い封筒を陸斗に渡した。
「なんですか、これ」
「夏にお中元を贈って頂いたから、そのお礼だ」
仁藤の親は夏休みにゼリーの詰め合わせをお中元として智子宛に送っており、そ
のお返しとして智子は図書カードと礼状の入った封筒を陸斗に渡した。
「それとさあ、これは言いにくいんだけど、年末のお歳暮は絶対に送らないように
言っておいてくれないかなあ。悪いけど」
「はぁ」
「いや、『はぁ』じゃなくて。『はい』って言ってくれよ」
智子は陸斗の気のない返事を注意した。
「なんで私がこんなこと言うか分かる?」
「いえ、他人の厚意に感心がないのかなと……」
「だから、そう思われるのが嫌だったんだよ」
「じゃあなんで……」
「聞け。説明するから聞け」
智子は少しいらいらしながら話を続ける。
「今年、私にお中元を送ってきたのは仁藤家だけなんだよ」
「そうなんですか?」
送るのが当たり前だと思っていた陸斗は、6年生になって初めて聞く事実に驚い
た。
「うちのクラスは25人いるだろ?」
「はい」
「その全員から送られたら、私どうなると思う?」
「えー……そうめんがいっぱい」
「まあ、みんながみんなそうめんにはならないけどな。そもそも、お前んちが送っ
てきたのもゼリーだったし」
「はぁ」
「私が言いたいのは、25人の家から贈り物をいただいたら、それだけお返しをし
ないといけなくなるということなんだ」
「はぁ」
「はぁじゃなくて。その封筒の中、3千円分の図書カードが入ってるんだけど、そ
れが25人だといくらだ?」
「3000×25だから……7万5千円?」
「そうだぞ。年末に7万5千円分の図書カード買うと思うと、頭クラクラしてくる
だろ」
「はぁ」
「頼むから、年末はもう私にはなにも送らないように御両親には言っておいてくれ
な。ハムが欲しけりゃ自分で買うから」
智子は両手を合わせ頼み込んだのだが、それに対する陸斗の反応は期待に反する
ものであった。
「この図書カード、俺のものになる気がする」
「お礼状にも、『陸斗くんのために本を買ってあげてください』って書いたから、
そうなるかもな」
「ということは、お歳暮も送れば年末にも3千円の臨時収入があるっていうこと」
「……」
この時の智子の苛立ちは言葉では言い表せないほどのものであった。
普段は控え目で問題行動などは起こさない陸斗が、こんな厚かましい性格をして
いたというのは意外な発見であった。
「お前、さっきの私の話聞いてたのかよ」
「聞いてましたよ。でも、お中元を贈らない家はお歳暮も贈らないから、25人に
お返しをすることもないですよね」
「まあ、そうかもしれないけど……」
「だったらいいじゃないですか。うちの親がともちゃん先生にハムを贈って、とも
ちゃん先生が俺に図書カードを渡して、俺が読んだ漫画の感想を親に言う。完璧な
三角トレードですね」
半笑いでそう言った陸斗を見て、不意に智子は思った。
(今からこいつのことを殴り殺そう)
智子は、善は急げとばかりに犯行に使う道具を教室の中から探し始めた。
「どうしたの、ともちゃん先生。なにか探し物?」
「うん。この辺に『鈍器のような物』ってなかったっけ」
「鈍器のような物……それなにに使うの?」
「お前を殴り殺す」
「え!?」
「お前、自分のことしか考えてないじゃん? そんなやつが社会に出たら迷惑じゃ
ん? だから今ここで私が殴り殺す」
「えー……」
「えーじゃねえよ! なんで私がお前の漫画代を負担しなくちゃならないんだよ!
ふざけんな!」
この発言だけを切り取れば智子の言い分はもっともである。
しかし、殴り殺してもいい理由はどこにも見当たらない。
「俺、ともちゃん先生に殺されちゃうの?」
「殺す! 殴り殺す! 嫌なら私の言うことを聞け!」
智子は泣きながら怒鳴った。
「分かった。じゃあ、俺も年末の図書カードは諦めます。だからともちゃん先生も
年末のハム諦めてね」
「私は別にハムなんか欲しくはないんだよ! 諦めるとか言うな!」
「じゃあ、今年のゼリーもこの図書カードと交換する? 俺、ゼリーでもいいよ」
陸斗の申し出を、智子は怒りの涙とともに拒絶する。
「ゼリーなんかもう、もらったその日に全部食べちゃったよ!!」
アイスがあればその日のうちに全部食う、プリンがあればその日のうちに全部食
う、もちろんゼリーだって……それが智子の生き方なのであった。