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137 兵庫に奇跡が舞い降りた

 智子は2列目中央の席に座り、難しい顔をして腕を組んでいる。


 行きの車でタイガースの高平を見逃した智子は帰りこそは見逃すまいと息巻いて

いた。


「ともちゃん先生、酔い止めの薬飲んだ方がいいですよ」

「嫌だね。あれ飲んだら絶対に寝ちゃうから。今度こそは運転する高平を見るんだ

もん」

「その前に酔うと思うけどなあ」

「気合で酔わねえんだよ!」


 心配をする進介に智子は怒鳴り声で返した。


「絶対に見てやるからな! 窓開けて応援歌歌ってやる!」

「そんなことしても聞こえないでしょ」

「熱い気持ちが届けばいいんだよ! 応援ってそういうもんだろうが!」

「真ん中の席で大声出すんですか? 窓側の席と変わりましょうか?」

「馬鹿だなお前は。高平の車がどっちを走るかなんて分からないだろ? 真ん中の

席にいればどっち側にも対応できるだろうが。先の先まで読んでおけ」

「そんなこと言ったらそもそも高平選手、今日は逆方向だと思うんですよ。だって

試合前のこの時間に帰宅するわけないんだから」

「……」


 智子は思っていたけど口には出さずにいたことを言われてしまい、途端に拗ねた

表情になる。


「もしかしたら、忘れ物を取りに帰るかもしれないじゃん……」


 進介は咄嗟に言い返そうとしたが、これ以上言ったら智子が泣くと思い踏みとど

まった。



 奈良から高速に乗った車は一直線に神戸を目指す。


 3列目シートに座った朝陽と拓海と賢一は行儀よくシートベルトをした状態で眠

りに落ちていた。


 2列目の窓側に座った陸斗と進介はというと、とてもではないが寝られる状況で

はなかった。

 

「ぅおえー、うっ、うっ……ぅおえー……」

 

 高速に乗る前から既にえずいていた智子は今にも胃の中の物を全てリバースして

しまいそうだ。


「ともちゃん先生、酔い止めの薬飲みましょうよ」

「いやだー」

「飲めば楽になれますよ?」

「いやだー。飲んだら寝ちゃうからー」

「寝ればいいじゃないですか。起きたらあっという間に到着ですよ」

「それだと高平が見れないー」


 智子は車酔いに苦しみながらもあくまでも高平選手の運転を見ることにこだわっ

た。


「見たいなら野球場に行けばいいじゃないですか。テレビでも見られるし」

「全然違う。普段の野球選手を道路で見るから価値があるんだ。レアキャラなんだ

よー」


 進介は智子の執念を過小評価していたことに気が付いた。

 智子はポケモン感覚で高平選手をゲットしようとしていたのだ。


 

 車が兵庫に入り目的地まであと2時間ほどになってもまだ、智子は三半規管の異

変と戦っていた。 


 智子の両脇に座る陸斗と進介は、もう薬を飲むようにとの説得は諦めて窓の外を

眺めていた。


 するとその時、陸斗の目の前を高級外車が近付いてきた。


 陸斗はすかさず運転席でハンドルを握る男の顔を確認する。


 そこには紛れもない「スターの輝き」が見て取れた。



 兵庫に奇跡が舞い降りた――



「チャーリー松だ!!」


 陸斗は叫んだ。


「チャーリー松?」


 苦しそうな智子だが、10年以上ぶりに聞くその名前に反応をした。


「そうだよ、ともちゃん先生! チャーリー松がジャガーを運転してる!」

「どこ……」

「あの黒い車。宇部さん、右前の黒い車と並走できませんか!」


 陸斗は智子のためにお願いをし、宇部もそれに応えた。


「ほら! 黒縁眼鏡じゃないし髪型もちょっと違うけど、完全にチャーリー松です

よ!」


 身体を乗り出して、並走する黒のジャガーの運転手を確認した智子は、ぽつりと

呟いた。


「チャーリー松だ……」


 智子の目に映るのは、その昔一世を風靡したベテラン芸人、「チャーリー松」で

あった。

 彼はこの日、盆踊りの営業が行われる姫路へ向かうため、愛車を西へと走らせて

いたのだった。


「朝陽、拓海、賢一起きろ! 隣にチャーリー松のジャガーが走ってるぞ!」


 陸斗に続き興奮した進介が後部座席の3人を起こす。


「チャーリー松?」

「右車線見ろ! チャーリー松だ!」

「……ほんとだ。チャーリー松だ」


 うしろの3人も自分の目でチャーリー松を確かめた。


「チャリ松、なんでこんなところ走ってるんだろうな」


 関西の少年たちは、「チャーリー松」のことを「チャリ松」と呼んでいた。


「チャリ松、仕事なさそうだからドライブでもしてるんだろ」

「チャリ松レベルでも外車に乗れるのかよ。芸能人てすごいな」


 チャーリー松を見下したような発言をする生徒たちに、智子は車酔いに苦しみな

がらも反論をする。


「お前ら世代にとってはチャーリー松は関西ローカルの芸人かもしれないがな、あ

れでも一世を風靡したことはあるんだぞ」

「え? 全国区っていうこと?」

「そうだそ。大企業のTVCMにも出てたしな」

「あのチャリ松が!? へー、あんなつまんない芸人にもそんな時代があったとは

ね……。あっ、離れてく!」 


 料金所での渋滞にはまると、智子たちのいるレーンよりもチャーリー松のレーン

の方がややスムーズに流れ、気が付けば黒のジャガーは視界から消えてしまった。



 車は神戸に入り、あと少しで家に着く。


 車内では智子による、「チャーリー松がいかにして一発屋芸人になりえたか」と

いう話が続いていた。



 今年の智子の夏が本当に終わる。


 智子の不思議な夏は、「奈良の姉妹」と「チャーリー松」2つの一期一会で幕を

閉じるのであった。

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