120 瑞穂ムーン
健太と昌巳がテントに入っていくのを見届けた智子は、もう1つやらなくてはい
けないことがあることに気付き、女子たちのいるテントに向かった。
大型のテントにはクラスごとに男女が分かれて入り、それぞれ4~6人ずつ割り
当てられていた。
智子はクラスの女子の名簿を確認し、瑞穂のいるテントの前で立ち止まった。
テントの中からは、微かに音楽が聞こえてくる。
「おい、テント開けろ―」
智子が外から声をかける。
テントは内側からジッパーを完全に閉めると外からは開かない仕組みになってい
た。
「ともちゃん先生だ!」
「まだ開けないで!」
「もういい?」
「もうちょっと……いいよ!」
女子たちの焦る声は全て外に筒抜けである。
「おう、パーティの最中に邪魔して悪いな」
開かれたテントの前で智子は仁王立ちになり、中で並んで寝そべっている女子た
ちに言った。
「ともちゃん先生、なにが?」
「なにがじゃねえよ、神田。持ってる物を出せ」
「え? なにが?」
「なにがじゃねえよ。お前、たつきょんの予言が当たったかどうか、確認してたん
だろう」
「……」
瑞穂は分かりやすく目を逸らす。
「スマホだろ? 出せ」
瑞穂は枕元に置いてあるリュックの中から片手で持てる大きさのクリーム色のラ
ジオを取り出した。
「ラジオか。まあいいや、渡せ」
瑞穂は素直にそれを智子に渡した。
「古いラジオだな。家にあったのか?」
「はい」
「てっきりスマホかと思ったけどな。雰囲気出してラジオにしたのか」
「スマホは災害に弱いので……」
「は?」
「停電すると基地局が機能しなくなる場合があるのでスマホのバッテリーが残って
いても繋がらなくなる恐れがあるんです。その点、ラジオは電波さえ飛んでいれば
その心配はありません」
「詳しいな……。その情報は自分で調べたの?」
「これくらいは常識ですよ」
瑞穂の偉そうな態度に智子はイラッとした。
「たつきょん信者の集いでは超初級のサバイバル術です」
「信者の集い? お前そんな怪しげな集会に参加してるのか?」
「違いますよ。集いっていってもネット上ですから、リアルではないです」
「そうか。よかった。変なやつらに取り込まれてないか心配になったよ」
瑞穂がネットとリアルの境界を理解できていることに智子はほっと胸を撫で下ろ
した。
「来週、『たつきょん先生の生誕を祝う会~60th~』には参加しますけど」
「やめてー! そんなの絶対参加しないでー!」
突然の智子の大声に、周りのテントのジッパーが続々と開き始める。
「なんでですか? いいじゃないですか。たつきょん先生が降臨なされた奇跡の日
を祝賀するだけですよ?」
「言葉のチョイスがいちいちきもい!」
「きもいって……」
智子の態度が瑞穂には気に入らない。
「ともちゃん先生は、たつきょん先生に偏見を持ちすぎです」
「お前、絶対たつきょんの漫画捨ててないだろ。約束したのに!」
「命令はされましたけど約束はしてません。そんなことしたらムーンたちに笑われ
ます」
「ムーン?」
「はい。たつきょん先生のフォロワーのことをムーンというんです。先生のお名前
の中に、『つき』が入ってるからそう名付けられました」
「気持ちわる……」
智子は見てはいけないものを見たというような顔で瑞穂を見つめる。
「ともちゃん先生、あんまりたつきょん先生のことを悪く言ってると地獄に堕ちま
すよ」
「地獄ってなんだよ! どんどん過激になってくじゃねえかよ! 来週は絶対に家
にいろよ!」
「それは無理です。フランスのムーンと一緒に参加する約束をしてるんで」
「え? フランスのムーン?」
「フランス人のたつきょん信者のことですよ」
瑞穂の言葉の意味を一瞬理解できなかった智子に教えてあげたのは同じテントの
愛梨であった。
「ああ、フランスにも馬鹿はいるんだな」
「ルイーズムーンは馬鹿ではありません! 彼女は世間の無知と戦う戦士です!」
「え? ちょっと待って。ルイーズムーン?」
「たつきょん信者は名前のうしろに、『ムーン』を付けるんだそうです」
「そうなの? ということは神田は?」
「私は、瑞穂ムーンです……」
そう言うと瑞穂は恥ずかしそうに目を伏せた。
「照れてんじゃねえかよ。お前、絶対に嫌だろ。本当はムーンとか言いたくないん
だろ」
「嫌ではないです……」
「じゃあなんで目を逸らすんだよ、瑞穂ムーン」
「……」
「なに黙ってんだよ。なんとか言えよ、瑞穂ムーン」
「……たつきょん先生は偉大です」
「そんなこと聞いてねえよ」
珍しく押し気味の智子に別のテントから真美がやってきた。
「ともちゃん先生、もう消灯時間は過ぎてますけど」
「ん? そうだけど……。それよりも神田がさあ、来週たつきょんのイベントに出
席するって言ってんだよ。お前からも止めてやってくれよ」
「たつきょんのイベントですか。瑞穂ちゃん、ちなみにそれはどこであるの?」
「稚内」
「わっかない!? 東京とか大阪じゃないの!?」
稚内と聞き智子は再び大きな声を出した。
「たつきょん先生が産み落とされし馬小屋がその地にあるんです」
「馬小屋!? たつきょんの母親、陣痛が始まってなんで馬小屋に行ってんだよ!
病院に行けよ!」
「キリストの系譜でしょうか」
「系譜でしょうかじゃねえよ! 単なるキリスト生誕エピソードのパクリだろ!」
「今度の旅では馬小屋宿泊プランで申し込んでいるので、ルイーズムーンと聖なる
お力を存分に浴びてこようと思います」
「馬小屋で寝るの!? 稚内だろ? 寒くないのかよ!」
「夏なので大丈夫です」
「まあ、夏だしな。大丈夫か……。でも、さすがに冬は無理だろうな」
「はい。旅行代理店は冬も企画したそうなんですが、馬小屋の所有者の許可が下り
ずに断念したそうです」
「そうか……。馬小屋の所有者が良識のある人物でよかったな。というかその馬小
屋、たつきょんの家のじゃないのかよ!」
結局、今回も智子は瑞穂を説得することはできなかった。
たつきょんにかける時間と金は無駄でしかないと思ったが、人生に無駄はつきも
のであり、それがなくなるのも逆に味気ない……そう考えることで自分を納得させ
る智子なのであった。




