12 油断
運動会の練習が連日のように行われている。
「以上が組み合わせになる。それでは、言われた順に並びなさい」
3組担任の佐久間の声が校庭に響き、生徒たちのあらゆる感情が言葉となって絡
み合う。前回の授業で計った50メートル走のタイムを元に作られた徒競走の組み
合わせが発表されたのだ。
「すぐに並びなさい! 今言った組み合わせで、早速走ってもらうからな!」
なかなか並ばない生徒たちに佐久間は大声で指示を出す。以前は智子も同じよう
に声を張り上げていたのだが、身体が小さくなってからはそうする気が起きず、た
だ生徒たちの周りを歩いて見回るだけの役割に徹していた。
1組の男子、朝陽、蓮、進介の3人が何やら話をしている。好奇心に駆られた智
子は、背後に回り聞き耳を立ててみた。
「普通に走ったらお前が圧勝するだろ。だから、わざとゆっくり走って相手を油断
させろ」
「そうだ。今日は練習だから勝つ必要は無いんだ。ゆっくり走って油断させろ」
どうやら、第1グループに入った進介に対して、朝陽と蓮が意見をしているよう
だった。
徒競走の組み合わせは佐久間が行った。その表を見たときに智子が気になったの
が、まさしく進介のいる第1グループであった。
他のグループが足の速さのほぼ同じ4人で構成されてるのに対し、第1グループ
だけがアンバランスだった。どう見ても、進介1人だけが速いのだ。
50メートル走のタイムを見てみると、他の3人はいい勝負なのに、進介だけ1
秒ほど速い。これで100メートルを走ると、場合によっては20~30メートル
もの差が開くのではないか。
智子は職員室でそのことを佐久間に指摘をした。
「それでいいんです。第1グループですから。思い切ったレースにして、見に来て
くれている保護者の目を引きたいんです」
(なるほどなあ、そういうやり方もあるのか。でも、これだと負けがほぼ確定して
いる3人がかわいそうだよなあ……)
智子はそう思ったが、職員室で揉めるのも面倒だし、そこでは何も言わずに引き
下がった。
そして今日、その当事者の進介が仲間たちにそそのかされ、わざと手を抜いて走
ろうとしている。
(油断させろってどういうことだ? 油断させて意味なんてあるのか? そんなこ
としなくても高平が圧勝するレースなんだぞ?)
「……分かった」
(高平よ、お前は何が分かったんだ!?)
進介はいつものように無表情で、下を向きながら列の先頭に立った。
(高平は自己主張が苦手なのか。友達は多そうだけど、あれじゃあストレスが溜ま
るだろうな……。とりあえず、今回は一旦様子を見るか。一緒に走る3人のプライ
ドを傷付けるようなことが無ければいいけど……)
「それでは第1グループ、位置に着いて」
佐久間に促され、進介を含む4人が白線の内側に立つ。
「よーい、ピッ」
佐久間の吹く笛に合わせて、4人はスタートを切った。
4人は反時計回りに第1カーブを行く。
先頭は進介、その横には小道大介が必死で走り、残りの2人が真後ろにぴたりと
ついている。
智子の目には、進介だけが手を抜いているように見えた。いや、実際明らかに手
を抜いている。それほどまでに他の3人と進介の間には実力差があるのだ。
進介と大介のデッドヒート、それは予想外の展開だったらしく待機している生徒
たちは大盛り上がりである。特に一部の女子たちは、健闘する大介に黄色い声援を
送っている。
小道大介というその男子生徒は、色白もち肌で、学校ではいつも女子たちと行動
を共にしていた。態度や言葉遣い、話す内容や表情までも女子たちに影響を受け、
本人も女子生徒として振る舞っているかのようだった。
当然彼女たちからの人気があり今の大声援に繋がっているのだが、それを進介が
どう感じているのかが智子は気になった。
最終コーナーを曲がり、最後の直線に入る。進介と大介の差は全く変わらない。
進介がチラチラと斜め後ろを窺い、その差を保っているのだ。
智子の目には進介の態度がわざとらしく見えるのだが、女子生徒たちにはそうで
はないらしく、更にヒートアップし大介に声援を送っている。
そして20センチほどの差を保ったまま、進介が1位、大介が2位でゴールした。
「あー、惜しかったー」
「小道くん、惜しかったよー」
生徒たちの元に戻った大介は、すぐに5人ほどの女子たちに囲まれた。大介も含
め、大はしゃぎするその全員が満面の笑みである。
一方、進介の元には朝陽と蓮が歩み寄る。2人は不敵な笑みを浮かべている。
「よくやった」
「グッジョブ」
(なにがグッジョブだよ)
智子は溜め息を吐きつつ、重い足取りでその3人に近付いた。
「中井、国木田、高平、ちょっと来い」
トラックでは第3グループの4人がスタートを切ったところだ。
「え? 俺と蓮はまだ走ってないですけど」
「いいから来い」
智子に促され、3人は列から離れる。
「高平、さっきの走りはなんだ」
「はい……」
「明らかに手を抜いて走ったよな?」
「……」
「中井と国木田にそそのかされたんだな?」
「俺、何も言ってないですけど――」
「すぐ後ろで聞いてたんだよ!」
嘘を吐く蓮を智子は一喝した。
「なんだよ、油断させろって。どういう意味だ。国木田、答えろ」
「えー……と、油断させろっていうのは……」
蓮はそれきり黙ってしまった。
「中井でもいいぞ。油断させろってどういう意味だ。答えろ」
「……今日は高平くんに手を抜いて走ってもらって、それで小道くんに油断をして
もらって、それで本番では有利になるかと思いました」
「なんだよそれ」
智子は改めて溜め息を吐いた。
「そもそも、高平の方が圧倒的に足が速いんだ。それはお前らだって知ってたんだ
ろ? だったら小道を油断させる必要なんて無いだろ。どうだ?」
「はい、そうかもしれません」
3人を代表して中井が答えた。
「分かったら、もう2度と相手を馬鹿にするようなことはするなよ。適当に走った
ら高平の練習にもならないしな。いいな」
3人は智子の話を素直に受け入れた。
(こんなもんかな……)
智子は説教を終え、3人を列に戻すつもりだった。しかし、それを遮る人影が。
「高平」
智子が振り返ると、そこには5人の女子を後ろに従えた大介が勝ち誇ったような
表情で立っていた。
「高平、今回はいい勝負だったね。でもね――次はこのぼくが勝つよ!!」
(えっ……)
「「キャーーーー!!!」」
大介は女子たちの黄色い声に包まれながら将軍様のような態度で列に戻って行っ
た。
完全に調子に乗った大介と、呆気にとられる智子たち。
(なにがキャーだよ……)
進介たちを見ると3人とも驚いたような半笑いのような微妙な表情をしている。
「おい、お前ら。どうすんだよ。お前らが責任取れよ。お前らのせいだからな」
「無理です……」
「無理ですじゃねえよ!! お前が本気で走ってればあんなモンスターは生まれな
かったんだよ!! お前が何とかしろ!!」
「……ぼく、どうすればいいですか?」
「知らねえ!」
泣きそうな進介をバッサリ突き放す智子。教師がやっていいことではない。
「ぼく、小道に謝ればいいのかなあ……」
「それもひとつの方法だ。でもな、ああいうタイプは天井知らずだからな。まとも
な人間には想像できないレベルで増長するからな。話なんて通じないぞ。それだけ
は覚えておけ」
「えー……」
進介は、智子の一つ一つの言葉にショックを受けている。
「進介ごめん。俺たち順番だから」
「えー……」
進介の元から離れる朝陽と蓮。
「私も仕事があるから」
「えー……」
生徒の見回りに戻る智子。
智子には、「神経の図太いやつは放っておいても大丈夫」という教師としての信
念がある。それゆえ、大介のことを思いやる気持ちは既に微塵も無かった。
トラックでは生徒たちが続々とスタートを切り、青春の1ページを刻んでいる。
ただ、列の外に残された進介だけが、一身に不幸を背負うのであった。