105 チョコバナナ揚げ
「いってきまーす!」
時刻は午後6時。
家を出た智子は海神社に向けてだらだらと歩く。
この日は夏祭りが行われるため智子はいつもよりも1時間も早めに夕食をとり、
準備をしていた。
祭りは3日間の予定で行われ、智子は1日目の見廻り担当になっていた。
生徒たちが問題を起こしていないか、問題に巻き込まれていないか、遅くなるま
で遊んでいないか……それらを監視することは教師にとっての大切な仕事である。
海神社に到着すると、そこは既に大勢の人で賑わっていた。
(昔はこんなに浴衣を着た人なんかいなかったけどなあ……)
神社の中だけに目をやると、男性の10人に1人、女性の2人に1人が浴衣を着
ている。
自分の生まれる前は日常的に着物を着る人たちが一定数いたと智子は亡き祖母か
ら聞いたことがある。
その後洋服が主流になり現在に続いているのだが、祭りの日の浴衣だけは昔のよ
うになってきているのだ。
アニメの影響だろうか、それとも経済的に余裕ができたのか、いずれにしても文
化というものは簡単に移り変わるものだなあと智子は不思議な気持ちでそれらを眺
めていた。
「湊川先生、おつかれさまです」
一緒に見廻りをする高井と社務所の前で合流した智子は、うしろにある階段の上
に立ち、辺りを見渡した。
見知った顔はなく、そもそも小学生らしい子供がほとんどいないようだ。
「今は夕飯を食べに自宅に戻ってるんです。おそらく7時頃からまた集まってきま
すよ」
智子は社務所の隣に設置されたテントの中に入れてもらいパイプ椅子に腰を掛け
た。
去年まではこんなことはなかったのだが、身体の小さくなった智子に気を遣った
神主らが勧めてくれたので甘えることにした。
帰宅時間が読めないこともあり、体力の温存が大事だと智子は考えたのだ。
高井の言う通り、7時になる辺りから見知った顔が続々と神社に集結し始めた。
「ともちゃん先生だ!」
「遅くなる前に帰れよ」
「ともちゃん先生もお祭りに来たの?」
「仕事だよ。お前たちのお守りだ」
「ともちゃん先生も一緒に屋台回る?」
「回らない。仕事だって言ってるだろうが」
生徒たちは智子を見つけると飛んできて笑顔で話しかけた。
そんな様子を神主や巫女たちは微笑ましく眺めた。
「ともちゃん先生ってこの町の出身でしょ? だったら海神社のお祭りも毎年来て
たってこと?」
「もちろん。小学生の頃は毎年来てたな」
「その頃は打ち上げ花火が上がってたって聞いたことがあるんだけど、本当?」
真美は父から聞いた話を元に智子に質問をした。
「ああ。昔は確か2日目が花火の上がる日だったな。やらなくなってもうどのくら
いだろう。15年くらい経つのかな? ということは、お前たちの生まれた時には
もうやってなかったのか。残念だな」
「なんでやらないの? やってほしいな」
「なんでだろうな。金か? 多分そうだろうな。予算の問題だ」
「そうか……。誰か出してくれないかなあ、お金」
真美が珍しく子供らしい態度を取る。
寂しげな表情を見せる真美に智子は語りかける。
「市川が大人になって稼ぐしかないな。私は市川にはその可能性はあると思ってる
ぞ。子供の頃に優秀なやつが大人になってもそうなるとは限らないけど、優秀な大
人は必ず子供の頃も優秀だからな」
智子は通知簿には反映されない真美の知性ある態度を評価していた。
こういう人間にリーダーになってもらいこの国の政治を任せたいとさえ思ってい
るほどだ。
「もし市川が稼げなかったら、その時は俺の出番だぜ」
声の主は健太である。
それに対し、智子は正直に思いを述べる。
「お前には無理だぞ」
「えっ……」
「お前が大金を得るとしたら、宝くじが偶然当たった時ぐらいだな。つまり、ほぼ
0%だ」
「えー……」
健太自身、自分は将来大物になるような人物ではないと薄々感じていたことだが
教師から面と向かってここまではっきりと言われるとさすがにショックである。
「人間にはそれぞれ役割があるからな。田中のそれは金を稼ぐことではないという
ことだ」
「俺にも役割があるのか……」
健太の目が輝いた。
自分の将来について初めて真剣に考えた瞬間かもしれない。
「ともちゃん先生、俺の役割ってなんだろう」
「田中、お前の役割は、『他人に迷惑をかけずにひっそりと生きる』ことだ」
「……」
「死んだら家族が悲しむからな、それはやめろ。旨いもん食って、楽しいことして
他人に迷惑をかけない範囲で生きろ。それができれば、田中健太の人生は100点
満点だ」
健太の不満気な表情を智子は見逃さなかった。
「どうした? なんか不満か?」
「俺の役割、社会の役に立ってないんですけど」
健太は智子の言葉の意味をすぐさま理解した。
健太の洞察力がここまで鋭いのは珍しい。
健太の脳も祭りでフィーバーしているのだろうか。
「田中、あんまり深く考えるな。そもそもお前は考えるのが得意な人間ではないん
だからな。楽に生きろ。お前は自分にもできる仕事を見つけて、働いて金を稼いで
その金で食って寝てればいいんだ。簡単だろ?」
「……それだけでいいの?」
「十分だ。お前はそれだけのために生まれてきたと思っていいぞ」
黙り込んだ健太を見て真美は気の毒になり、智子の耳元で囁く。
「ともちゃん先生、言い過ぎです。田中くんの将来を勝手に限定しちゃあ駄目です
よ」
「そうかなあ。生徒の生きる道を示すのも教師の役割だと思うけど……」
真美が智子の発言に納得がいかず首を捻っていると、その横で半笑いの健太が口
を開く。
「俺、チョコバナナを油で揚げて食ってみたいんだよなあ」
突然の告白に真美は戸惑いの表情を見せる。
「分かる!」
健太の突飛なアイデアに共感したのは親友の昌巳だ。
「りんご飴と綿菓子も油で揚げてえ」
「りんご飴と綿菓子を!? すごい! 天才かよ!」
テンションが上がっていく2人を智子と真美は冷たい視線で見つめる。
「どうして揚げるんですかね……」
「でぶは揚げ物が好きだからな。本能だろうな」
「田中くんってともちゃん先生の言う通りの人生を歩むのかもしれませんね」
「だろ?」
よだれを垂らしそうな顔で揚げ物を想像する健太に、真美は嫌悪感にも似た感情
を抱いていた。
目の前では依然として健太と昌巳が油で揚げたい食べ物を言い合っている。
「海老天!」
「カツ丼!」
「ポテトチップス!」
揚げ物をさらに揚げるという荒業を披露するでぶ2人に、真美は聞いているだけ
で吐き気を催してくるのであった……。




