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104 視力がよくなるキャンペーン

 夏休みが始まった。


 だからといって暑さや湿度、蝉の声が急に変化をするわけではなく、昨日までと

同じような暑くて鬱陶しい生活が夏の日射しの中で営まれている。

 

 そんな中でも学校だけは24時間前とは様子が一変している。


 前日までの喧騒が嘘のように静まり返る廊下と教室。


 走り回る子供たちがいないのに何故か舞う埃が陽の光の中で踊っている。



 教職員は夏休みの間も研修があったり、2学期や林間学校の準備があったりで大

忙しである。


 智子ももちろん例外ではなく毎日学校へ行ってはいるが、毎朝1時間だけ有給を

取り、その分いつもより遅れて出勤をしている。


 生徒たちがいないため昼食も自分1人で集中して食べられるし、残業なく退勤で

きるし、普段と比べてほんの少しだけ気楽に時間を過ごせていた。



 それは夏休みも1週間が過ぎようとしていた木曜日のことだった。 


 週末に行われる夏祭りの視察と挨拶のため、智子は5年2組担任の高井とともに

海神社を訪れていた。


 国道沿いにあるその神社は、智子にとっては物心のついた時から祭や初詣、さら

には普段の遊びでも通い続けた思い出深い場所であった。 


 馴染みの神主は、もちろん智子が幼女化していることを知っている。


「湊川先生もついでに七五三をしていきますか?」


 うざい神主ジョークを大人の対応で受け流した智子は、高井とともに早々に神社

をあとにした。



 智子は鳥居をくぐったところで健太と昌巳に出くわした。

 珍しいことに、健太は眼鏡をかけている。


「あ、ともちゃん先生」

「田中と松田か。お前ら夏休みでも一緒なんだな」  

「うん。新しい靴を買ったら、たまたま昌巳も同じ店で同じのを買ってたんだ」


 足元を見ると2人は同じメーカーの同じ靴を履いていた。

 もちろん色も同じ青である。


「おお、そうか……」


 そんなこと誰も聞いてねえよ、と智子は思ったが口には出さずにおいた。


「そんなことよりも眼鏡かけてるけど、どうしたの? これからはかけて生活する

ことにしたの?」

「俺、今そこのビルに通ってるんだよね」 


 健太は自慢気にそう言ったが、これもまた智子の質問とはずれており、智子を苛

立たせた。


「そんなこと聞いてねえよ。私が聞いたのは眼鏡だよ。お前はこれから眼鏡生活に

入るのかって聞いたんだよ」

「だから、視力をよくするための訓練を毎日やってるんだって」

「視力をよくする訓練?」


 智子は健太が指差すそのビルを改めて見上げた。


 国道を渡ってすぐの場所にそびえるその建物は、灰色をしたなんの変哲もない商

業ビルである。

 

 それは智子が子供の頃からそこにあったような気もするがそれは定かではない。


 そんな町の人間の記憶にも残らないような平凡なビルの中で、「視力をよくする

訓練」などという人類の歴史を一変させるかもしれない事業が行われているとは、

智子には思えなかった。


「視力をよくする訓練ってなに? 親はそのこと知ってるの?」

「うん。お母さんが契約したから」

「そうなの? それならまあいいか……」


 子供たちだけで勝手に出入りをしているのならともかく、親公認ならば自分があ

れこれ言うこともないだろうと、智子はその場を立ち去ることにした。


「それじゃあ2人とも遅くなる前には帰れよ。次は林間学校でな」


 そう言って智子は高井とともに立ち去ろうとしたのだが――。


「視力がよくなるキャンペーン、俺も入ろうかなあ」

「昌巳も入っちゃえよ。今ならたったの30万だぞ」


 その会話を耳にした智子は足を止めた。

 視力がよくなるキャンペーン……。

 今ならたったの30万円……。


 これは放ってはおけない――智子の中の良心が呟いた。 


「おい、視力がよくなるキャンペーンってなんだ?」

「え?」


 別れたと思っていた智子に再び声をかけられた2人は驚き、足を止めた。


「なんだよ、ともちゃん先生。俺もう時間なんだけど」

「視力がよくなるキャンペーンってなんだよ。それだとまるで、必ず視力がよくな

るみたいじゃないかよ」

「よくなるよ。だから契約したんだから」


 健太は当たり前のことを聞いてくるなといった様子だ。


「レーシック手術でもするってことか?」

「手術なんかしないよ。毎日、視力をよくする訓練を続けるんだよ」 


 約束の時間が迫っているため健太はいらいらし始めた。


「具体的に何をしてるんだ? 変なことされてないか?」

「別に普通だよ。毎日距離を変えて両目の視力を計ってるだけだよ」

「それだけ? 薬は? 目薬かなにかないの?」

「ない。計るだけ」


 智子は詐欺集団のあまりの大胆さに驚くとともに、こんなものに騙される人がい

ることに対して、落胆に近い心持ちがした。 


「その視力検査っていうのはどのくらいの時間をかけるものなの?」

「最近は慣れてきたから1分もかからないよな」

「1分? たったの1分の視力検査で目がよくなると思ってるのか?」

「だって、そういうキャンペーンだろ?」


 智子は眩暈がした。

 自分にはこんな人間に教育などできないと思った。


「視力検査のCのやつ、もうほとんど覚えてるんだろ?」

「覚えてはないって。元々見えてるんだって」

「そっか、健太って両目1,5だもんな!」



 健太の視力が両目ともに1,5であることを智子は改めて思い出した。


 そもそも眼鏡をかけることも視力の矯正も彼には全く必要などないのだ。 


 しかし健太は今日も視力2,0を目指して視力がよくなるキャンペーンに通う。


 本来ならば出会うはずのなかった詐欺集団に堂々と引っ掛かる教え子に、智子の

三半規管は酷くなるばかりなのであった……。

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