102 置きっぱ
「ともちゃん先生、教科書って置いて帰っていいんですか?」
「は? いいわけないだろ」
終業式も終わり、あとはクラス担任から夏休みの宿題と通知簿が渡されるだけで
ある。
それが済むと生徒たちは長い長い自由時間を手に入れることになるのだが、教科
書を教室に置いて休みに入ろうとした駿に智子は苛立ちを見せた。
「というかお前、普段から教科書学校に置きっぱなしで帰ってんのか?」
「帰ってる。置きっぱ」
「ゲロッパみたいに言ってんじゃねえ」
「ん? ゲロッパ?」
「いいんだよ、今は。ジェームスブラウンの口癖に引っ掛かってんじゃねえよ」
「ゲロッパ」はジェームスブラウンの歌の歌詞であり、決して彼の口癖というわけ
ではない。
「教科書がないと宿題ができないだろ」
「その時は持って帰るか学校でやるから別にいい」
「まあなあ……」
心が6才児の智子は柔軟な発想を持っているため、「宿題は絶対に家でやらなけ
ればならない」などという古い考えは持ってはいなかった。
「じゃあ、教科書置いて帰っていい?」
「それは駄目」
智子は駿の願いを一瞬で却下した。
「なんでだよー」
「けじめだ。普段は大きい荷物は置いて帰ってもいい。でも長期休暇の時は、それ
らも含めて全部持って帰れ」
「俺、彫刻刀とか縦笛とかも置きっぱだったから、すごい量なんだよなあ……」
駿の机の上には図工や音楽の授業で使う道具が所狭しと置かれている。
「だから、ちょっとずつ持って帰れよって2週間くらい前から言ってただろ。教師
の言うことを無視した怠け者が痛い目を見るんだ。ざまあみろ」 「ざまあみろは余計では……」というのが多くの生徒たちの思いであったが、智子
の口からあまりにも滑らかにその言葉が飛び出したので、「ともちゃん先生だし、
まあいいか」と今回もみんなから見逃されたのであった。
「北山、机の中の物を一旦全部出してみろ」
「これで全部だけど……」
駿は机の上の物を見ながらいつものにやけた顔でそう言ったが、智子は信用しな
かった。
「芦田、北山の机の中を覗いてみてくれ」
智子からそう言われた隣の席の凛は、露骨に嫌な顔をする。
智子はその凛の表情を見て深く頷いた。
「芦田は正直者だな。子供らしくてよろしい」
凛は自分のなにを評価されたのか分からなかったが、彼女は先生の言うことは絶
対という日本式価値観の犠牲者の1人であるため、仕方なく頭を下げ、駿の机の中
を覗きこんだ。
机の中は駿の言う通りなにも無いわけではなく、いくつかの物が奥の方に詰まっ
ていた。
奥は陽の光が届かず暗い。
それはどうやら教科書でも筆箱でもなさそうだ。
ようやく目が慣れてきた凛はそれを、くしゃくしゃになったプリント類だと判断
した。
「なんかあるのか?」
「プリントが奥の方に詰まってます」
智子の問いに凛は答えた。
「プリント? お前それ、大事なやつじゃないだろうな」
「そんなんじゃないって、ほら」
そう言って駿は机の奥から、くしゃくしゃになったプリントの束を引っ張り出し
た。
「これも、これも、全部朝の漢字テスト」
プリントを広げてみると、それらは全て1問も正解していない朝の漢字テストで
あった。
「ほら、こんなの別に親に見せなくてもいいだろ?」
「まあ、それならな。本当にそれで終わりか? 中にまだ残ってないか? 芦田、
もう1回確認してくれ」
凛は再び苦痛の表情を見せた。
既に自分の役割は終わったものだと思い込み安心しきっていたから、そのストレ
スは相当なものであった。
「正直者アゲインだな」
智子のこの発言も、凛にはさっぱり意味が分からなかった。
どうせ自分がやるまで帰してもらえない……。
意を決した凛は再び頭を下ろし、駿の机の中を見た。
パッと見た感じでは、もうなにも無いように見えた。
しかしよく見ると、隅っこになにかある。
微妙な色のそれがなんなのか、凛には全く見当が付かなかった。
「なにかまだあるような気がしますが、なにかは分かりません」
それを見ながら凛は報告した。
「取ってみてよ」
智子の言葉につられ、凛は手を伸ばした。
それがなんなのかを知りたいという好奇心が凛の中にも芽生えていたのだ。
凛は奥にあったそれを掴んだ。
その感触から瞬時に、「給食のパンだ」と気が付いた。
「パンです」
凛はそう言いながら、それを自分の机の上に置いた。
なぜこの時凛は、駿の机ではなく自分の机の上にそれを置いたのか。
それは駿の机の上が家に持って帰るべき物で溢れていたからだったのだが、その
ことを凛はこのあと夏休み中後悔することになる。
凛が机の上に置いたのは、食べかけのコッペパンだった。
そのコッペパンは本来の焼き色ではなく、白や緑や青などの色とりどりの粉が表
面にかかっていた。
それらはどう見ても、「カビ」であった。
見た瞬間、凛は気が遠くなる思いがした。
自分の机の上にカビまみれのパンがある。
そのパンはずっと隣の席の中に放置されていた。
その不潔なパンを自分は直に触った……。
その瞬間、凛は自分の中から込み上げてくる熱い物を感じた。
「そのパン、カビだらけだ!!」
誰かの叫ぶ声が聞こえる。
「芦田がゲロ吐いた!!」
(この声はともちゃん先生だ……)
「市川、塚本、雑巾持ってこい! 中井、すぐに佐久間先生を呼んでこい!」
凛は周りのみんなが自分のために動いてくれていることを心強く思いながら、も
う1回ゲロを吐いた。
「芦田がまた、ゲロ吐いたー!!」
(この声もともちゃん先生……)
芦田凛、11才。
1学期最後の授業、途中退場。




