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10 窃盗事件

「ともちゃん先生、ちょっといいですか?」


 2時間目の授業が終わり職員室へ帰ろうとしたとき、智子は真美に引きとめられ

た。


「なんだ? 授業のことか?」


 近付くと、数人の女子生徒が集まっていたのだが、よく見ると中央の席に座って

いる芦田凛が泣きそうな表情で俯いている。


「どうした?なんかあったか?」

「芦田さんの消しゴムが盗まれたんです」

「あぁ……」


 智子は露骨に嫌な顔をした。「面倒なことになったな」という気持ちが顔に出て

しまったのだ。


 学校で生徒間のトラブルを避けて通ることはできない。その中でも、「盗み」と

いうのは、「暴力」と同様に教師が決して見過ごしてはいけない大問題なのだ。


 さらに、「暴力」はその事実の証明が比較的しやすいのに対し、「盗み」は本人

から否定されてしまうと「冤罪」の可能性も考えねばならず、そうだった場合は、

「なにもしていない生徒を疑い、加害者扱いしてしまう」という別の問題が発生し

てしまう。


 教師にとって生徒の「盗み」は、慎重に対処せねばならない敏感な問題であり、

今の智子にとっては、できれば関わりたくない「面倒臭いこと」であった。


「まずは話を聞かせてくれ。無くなったのはなんだっけ?」

「消しゴムです」


 凛に変わって真美が答えた。


「あー、消しゴムか。それが盗まれたっていうのはどうしてそう思うんだ? ラン

ドセルの中とか家に忘れてきたとか、そういう可能性はないか? しっかりと探し

たか?」

「それはありません」

「なんで言い切れる?」

「だって、隣の席の田中くんが使ってるからです」

「隣の席の……」


 智子は言葉を失った。隣の席の奴が堂々と使っているだと? 一体どんな神経を

してるんだよ、田中健太。


 真美が続ける。


「昨日の5時間目に凛ちゃん、消しゴムが無いことに気付いたんです。筆箱の中に

も机の中にも無いし、どこかに落としたのかもしれないから、次の休み時間に仲の

良いみんなで教室中を探したけど無かったんです。凛ちゃんが大切にしてた物だっ

てみんな知ってたからなんとかしてあげたくて放課後もみんなで探したんですけど

結局見つからなくって。凛ちゃんがもういいよって言ってくれたから、仕方なく昨

日はみんな帰ったんです。そしたらさっきの授業中、隣の席の田中くんが筆箱から

凛ちゃんの消しゴムを出して使い始めたんです。あれ、間違いなく凛ちゃんのなん

です」


 詳しく話を聞いても、智子には健太の精神がさっぱり理解できなかった。


「本当に間違いないか? たまたま今日から同じ種類の消しゴムを使い始めただけ

という可能性はないか? まあ、それが隣の席の人間っていうのはあまりにタイミ

ングがよすぎるけれども……」

「間違いないと思います。だってその消しゴム、限定品だから」

「限定品?」

「はい。限定品の消しゴムです」

「なんだよ、限定品の消しゴムって」

「凛ちゃん、『ラブライブ!』っていうアニメが好きなんですけど、春休みにその

『ラブライブ!』のイベントが大阪であって、私と2人で行ってきたんです。その

消しゴムその時に買った大阪会場限定商品なんです」

「そうなのか……」

「はい。ネット通販でも買えない、大阪会場限定販売の消しゴムなんです。もしか

したら田中くんもそこで買って来た可能性はあります。でも、凛ちゃんが無くした

次の日のタイミングに色もデザインも全く同じ限定品を使い始めるなんてことあり

ますか? 凛ちゃんのを盗んで使ってるとしか思えません。しかも、ピンクの消し

ゴムですよ? 男子がそんなの使ってるのなんて見たことありません!」

「まあなあ……」 


 智子は、友達のために熱く語る真美に感心をしつつも、状況的に見て健太が疑わ

れるのは仕方がないことだと認めざるを得なかった。もしかしたら、健太もそのア

ニメのファンで、出来心でついやってしまったのかもしれない。


 それにしても、隣の席の物を盗んで次の日から堂々と使い始めるというのは、あ

まりにも大胆だ。健太は成績の良くない生徒ではあるが、そこまでの馬鹿なのか?


「まずは私から話を聞いてみるから、向こうがなんと言ってもお前たちは黙って聞

いていてくれ。いいな?」


 真美たちをその場に残し、智子は教室の後ろで他の男子たちとふざけ合う健太に

近付いた。


「お前ら今日は外で遊ばないんだな」

「いいの? 雨降ってるけど」


 学年で健太の次に太っている昌巳が外を見ながら言った。

 このクラスには、学年一位と二位のでぶが在籍している。始業式の日、その二人

が並んでいるのを見た瞬間に「クラス替えのやり方間違えた」と気付いた事を智子

は思い出した。


「ああ、雨か。じゃあ無理だな」

「やっぱ無理だよー。ともちゃん先生、微妙に俺たちのこと喜ばすなよー」

「ああ、すまんな……。ところで田中、お前最近どんな文房具を使ってるんだ?

持ち物検査をさせてくれないか」

「えっ、検査?」

「そんな難しいことじゃない。生徒が正しい道具を使っているか、正しく使えてい

るかを指導するのも教師の役割だからな。今日の持ち物検査はお前の番だ。さあ、

見せてみろ」


 協力的ではない健太を席に連れ戻し、机の中から筆箱を出させる。


「とりあえず、鉛筆と消しゴムと定規は持って来てるか? 出してみろ」


 智子の言葉に、健太は渋々スポーツメーカーのロゴの入った筆箱を開け、中から

筆記用具を取り出した。

 そこからは1本の定規と、5本の鉛筆と、2個の消しゴムが出てきた。

 2個の消しゴム……。「こいつ、絶対やってる」と智子は思った。


 消しゴムの1つには、筆箱と同じスポーツメーカーのロゴが入っている。そして

もう一つの消しゴムはピンク色で、ケースには黄色い髪の毛のかわいらしい女の子

の絵がプリントされている。おそらくこの子が「ラブライブ!」のキャラなのだろ

う。


 智子はそのピンクの消しゴムを手に取り、真美たちの方を見た。泣きそうな表情

の凛以外の全員が強く首を縦に振る。


「定規と鉛筆と消しゴムか。赤鉛筆は持ってないのか?」

「赤のボールペンを持ってたけど、12月になくしちゃって、まだ新しいの買って

ない。忘れてて」

「4か月も忘れてるのかよ。まあ、赤ペンなんて持ってなくても不都合は無いけど

な」

「もう、しまってもいい?」

「ちょっと待て。この消しゴムなんだけどな。なんで2つも持ってるんだ? こん

なもん1つあれば十分だろう」

「べ……別に2つあってもいいし……」


 健太は明らかに動揺している。目は泳ぎ、顔は薄ら笑いを浮かべ、鼻息も荒い。

 

「なあ、これって貰い物か?」

「えっ、なにが……」

「この消しゴムだけピンクだろ?他のと同じように青だったら気にならないけど、

この消しゴムだけがピンクだからな。誰かから貰ったものかと思ったんだけど、違

うか?」

「……自分で、買った」

「へえ、そこの文具店か?」


 滝小学校の校門前には文具店「桐谷堂」があり、小さな店は朝から生徒たちで賑

わっていた。


「いや……そこじゃなくて、スーパーで」

「スーパーっていうことは、あっちの駅前のスーパーの3階か?」

「う、うん……そう」


 健太はもう智子の目を全く見ていない。智子は残酷だと思いながらも、健太の話

の矛盾を突く。


「田中、この消しゴムだけどな、スーパーじゃ売ってないんだよ」

「え……」

「この消しゴム、駅前のスーパーの文具品売り場には置いてないやつなんだよ」

「で、でも……売ってたから」

「この消しゴム、アニメイベントの限定商品だからスーパーでは買えないんだ」

「でも……」健太は消え入るような声で呟いた。「売ってたから……」

「そうか。でもなあ、多分売ってなかったと思うぞ。もう一度、よく思い出してみ

ろ。本当にスーパーで買ったか? 教室で拾ったとかじゃないか?」

「……」

「もしも、田中がこれをイベント会場で買ったとかネットオークションで競り落と

したとかだったら調べてみないと分からないことなんだが、スーパーで買ったって

いうのはちょっとなあ……。もう一度よく思い出してみてくれ。この消しゴム、ど

うした?」

「あっ、お、お姉ちゃんが、スーパーで買ってきてくれた」

「ん? お姉ちゃん?」

「うん。お姉ちゃんが、スーパーで」

「うーんと……お姉ちゃんていうのは本当にいるのか?」

「いるよ! 今、中2!」


 智子は真美たちの方を見た。全員、首を傾げている。どうやら健太の姉の存在を

知る者はいないようだ。


「そうか。お姉ちゃんがいるのか。で、そのお姉ちゃんが?」

「買ってきた」

「どこで?」

「スーパーで」

「いやいや。さっきも言ったけど、その消しゴムはスーパーには売ってないやつな

んだよ。中学生のお姉ちゃんでも、それは無理なんだよ」

「でも買ってきたから、お姉ちゃんに聞いてみないと」


 どうやら、健太はお姉ちゃんのせいにすることで、とりあえずこの場を乗り切る

つもりらしい。 

 子供というのは往々にして後先を考えない言動をとることがあるが、これがまさ

しくそれだと智子は嘆息した。


「そうか……じゃあ、連絡帳を出してくれ。親御さんから聞いてもらおう」

「え?」

「連絡帳だよ。私の方から田中の御両親に、このことを確認してもらうようお願い

をするから。さ、連絡帳出して」

「別に親に言わなくても俺がお姉ちゃんに聞くし……」

「お前は当事者なんだから駄目だろ。それにな、実はその消しゴムが無くなったっ

ていう訴えが出てるんだ。それを解消するためには、この消しゴムの持ち主がお前

であると完全に特定しておいた方がいいんだ。そうすれば田中も気持ち良くこの消

しゴムが使えるだろ? 悪いけど、今日の所は一旦疑われてくれ。疑いが晴れたら

私がちゃんと謝るから。な? いいだろ?」


 智子の追及に健太は追い詰められたと誰もが思った。

 しかし、ここで健太は思わぬ反論をし始めた。


「これ、俺の消しゴムだから。絶対だから。ほら見てよ」


 健太はそう言うと、消しゴムのカバーを外してみせた。


「え?」


 智子の目に飛び込んできたカバーの外されたピンク色の消しゴム、そこには油性

マジックででかでかと『たなかけんた』と書かれていた。


「な? 俺のだろ?」


 健太は誇らしげに満面の笑みをたたえている。


「お前もしかして、それでそれが自分の物だと証明したつもりか?」

「だって、俺の名前が書いてあるし」

「いやお前、それは順序が逆だろ。人間ていうのは自分の物に名前を書くんだよ。

名前を書いたらそれが自分の物になるんじゃないんだよ」

「でも、俺の名前書いてあるし」

「だからその開拓時代のアメリカ西部みたいな言い分やめろ。『こっからここまで

が俺の土地』じゃないんだよ。名前なんか後からいくらでも書けるだろ?」

「開拓時代……?」


 健太は智子の例え話が全くピンとこず、不思議そうな顔をしている。


「いやいや、ごめんごめん。その話は忘れてくれ。私が言いたいのは、所有権とい

うのは自己主張で決まる訳ではない、ということなんだ」 

「名前書いてあるけど……」

「そんな事には何の意味もない」


 智子のその言葉に、健太はようやく話を理解し、納得して答えた。


「じゃあこれ、俺のじゃないのでいい」

「俺のじゃないのでいいだと?」


 健太の出した答えに、智子はイラッとした。


「うん。この消しゴム、俺のじゃないのでいい」


 健太は笑顔である。

 智子はその顔を見て激昂した。


「ふざけるな! 私がお前にどんだけ気を遣ってやってると思ってるんだ!!」


 智子は机の上の鉛筆を鷲掴みにし、健太に放り投げた。


「なにすんだよ!」

「なにすんだよじゃないよ! お前なんか鉛筆が刺さって死ね!」

「ともちゃん先生! 駄目!」


 鉛筆を投げ、机を蹴り、喚き散らす……そんな智子を真美は羽交い絞めにして取

り押さえた。


「ともちゃん先生、我慢して!」

「嫌だ! こいつだけは許さん! こいつだけは!」

「ともちゃん先生、もういいから! 私、消しゴム諦めるから!」


 被害者のはずの凛も一緒に智子を押さえに掛かる。


「なんで芦田が我慢する必要があるんだよ! 悪いのは向こうだ! 取り返せ! 

謝らせろ! 弁償させろー!!」


 既に3時間目の始まりを告げるチャイムは鳴っている。

 しかし6年1組の教室の中はもう、収拾がつかない。


「誰か、先生呼んできてー!!」


 真美の声が教室に響く。

 ほどなくして3組担任の佐久間が来て、暴れる智子を取り押さえた。


「ふざけるな! ふざけるな! バカヤロー!!」


 体力のある限り暴れ続ける智子。


 それに対し、健太は自分のなにがいけなかったのかを完全には理解をしていない

様子で立ち尽くすのだった。

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