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油断していた。
仕事の帰り道、この前と同じ場所で街灯に照らされ彼女は立っていた。
俺が渡したコートを羽織った姿で。
ここで道を引き返すのもおかしな話だと、声をかけないでくれた願いながら帰路を急ぐ。
「こんばんは」
その澄んだ声が俺の足をその場に縛りつける。
理性は関わるべきではないと言っているのに惹かれてしまう。
今まで出会ったラヴァーソウルと比べて、彼女は最も美しい。
「どうして、またここに」
「あなたに逢いたくて」
心臓が跳ねる。
悍ましい。
その存在一つで、その言葉一つで、俺の下らない人生を全て清算して希望を与えてしまうほどのエネルギーがあった。
手を伸ばせば届く。
「どうされました?」
「俺は、あなたを」
だが、俺はまだ、自分の力で何一つ成し遂げていないではないか。
この状態で彼女を手籠にしたとして、誇れるのか。
胸を張って生きていけるのか。
否、断じて否だ。
俺はそういう生き物なのだ。
人間社会の底辺を這いずりながら、言い訳も諦めも出来ずに、せめて善く生きようと、現代社会では一文の値打ちにもならない理想にしがみついている愚か者なのだ。
「……もし、一言でも、私を欲しいと言っていただけるのなら、求めていただけるのなら、今すぐその胸に飛び込みます」
「やっぱり、駄目だ」
彼女の顔に影が差す。
「俺はまだ、納得のいく生き方が出来ていない。他者を受け入れる余裕なんてない」
「ヒトは不完全なもの、誰だって納得のいく人生なんて送っていない。だから、他者と補い合うのでしょう?一人で自分の人生に頭を抱えるより、二人で互いの人生を彩る方が素敵だと思いませんか?」
その言葉に思わず失笑してしまう。
そうだ、俺はこれに殺されてきたのだ。
「それが普通だと言うのなら二度と俺の前に現れないでくれ」
「どうして、ですか」
「それは、普通に生きれなかった俺の今までを否定する言葉だからだ」
衝撃を受けた彼女は端正な顔を歪め苦悶する。
これでいい。
先程の、彼女を求める熱もすっかり冷めた。
「ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんです。嫌わないで、嫌わないで」
「違うんだ。あなたはただ、道端の石ころにつまづいただけだ。普通の場所に行けば、あなたは必ず愛されるだろう」
俺は彼女の言葉を待たずに再び歩き出す。
冷たい風がどこまでも俺の体に纏わりつき熱を奪っていく。
その冷えた体の中心で拍動する一つの心臓だけが、俺の全て。
誰もいない、何もない。
暗く苦しく悲しい想いを引き摺り進む他、生き方を知らない。
それでいい。
生きる勇気も死ぬ勇気も無い死にたがりには、これくらいの人生がお似合いだ。