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「センパイ、なんか、怒ってます?」
仕事中、トラックの車内で松嶋が俺に声をかける。
リタの事で気が気でない俺の黙り込む様子を見て不安になっているのだろう。
「お前は関係ない。気にするな」
「いや、流石に気にしますって。この狭い場所で二人きりなんですから」
それもそうだ。
俺は大きく深呼吸をし、ストレスを懸命に吐き出す。
「プライベートで嫌な事があっただけだ」
「それじゃあ、あたしが相談に乗りますよ。この前、助けてもらった恩もあるし」
普段なら軽く流すところだが、今の俺には誰かの意見が必要だ。
「……もしも、自分の大切な人が、病気でも何でもいい、命を落としそうになったら、お前ならどうする?」
「えっ」
悩みの内容が予想外だったのだろう、素っ頓狂な声を上げる松嶋。
しかし、彼女は茶化す事もなく真面目に答える。
「それは、自分にできる事なら何でもしますよ」
「でも、できる事なんてないだろ?それに、周りは誰も助けてくれない状況だ」
「それでも、何もしなかったら後悔に襲われる未来が待っているじゃないですか。……少なくとも、あたしは今まさに、そうなってます」
ああ、聞くべきではなかった。
余計なものを掘り出してしまった。
「そんな質問をするって事は、センパイも、失いたくない人が現れたんですか?」
「いや、例え話だ」
「それなら、それを経験したあたしが先輩として、教えてあげます」
何故か、二の句を告げず沈黙する松嶋。
自分から切り出しておきながら、余程言い難い事情があるのだろうか。
「……あたしの場合は、ラヴァーソウルでした」
ようやく開いた口から出た言葉は、俺の思考を停止させるには十分な衝撃を持っていた。
「子供の頃、親に見放され家出した事があったんです。何もかもが嫌になって、もう、どうなってもいいと思っていました。でも、そんな事も吹き飛ぶくらい、嫌な事で溢れていました。嫌悪の視線やニヤニヤしながら近づいてくる大人、どこを見渡しても敵だらけ。飢えと寒さに苦しみながら、諦めかけていた時。そんな時に、ラヴァーソウルに助けてもらいました。その時に初めて、幸せを感じたのを覚えています。ホームレスになった後も、彼のおかげで生き永らえた。ずっと、二人で生きていければそれでいいとさえ思えていた」
境遇は違えど、俺と同じような状況。
「でも、彼も例外なく、体が黒く染まっていきました。この世界は、生きているだけで誰かの悪意に晒される。わかっていたはずなのに関わってしまった」
いつもの能天気な様子は彼女なりの処世術だったのかと思わせるほどの変貌ぶり。
「そして、彼は、危害を与えないようにあたしを残して、消えてしまいました。生きて、と呪いだけを残して」
何を言えばいい。
「別に、慰めて欲しいわけじゃないですよ。ただ、そうなれば、どうしようもなく辛いってだけです。だから、センパイも気をつけてください。後悔のないように、全力で向き合うんです」
まさか、こんな気持ちになるとは思わなかった。
軽い気持ちで話を聞いた事を後悔しつつも、俺の頭の中はリタの事で溢れていた。
もしも、こんな面倒な事の全てを投げ捨て、全てを終わらせる事が出来たのなら、と。
*
帰宅。
外とは一変、今では日常となった幸せな光景に胸が締め付けられる。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
何もなかったように接してくれるリタの姿。
このまま、別れを告げてしまえば痛みは少なくて済むかもしれない。
いや、本当は。
「リタ、ここから逃げよう」
「キョウスケ?」
「こんな所に居たって、俺たちは駄目になるだけだ。だから、誰もいない場所に、二人で逃げよう。それで短い一生を送る事になってもいい。このまま怯えながら生きるよりはましだろ」
困った表情をするリタ。
きっと彼女は俺の身を案じている。
人は人と生きていかなければいけない、それが彼女たちの想い、それが人にとって最も重要なのだと考えているのだろう。
だからこそ、ラヴァーソウルと仲を深めるほど、人は間違いを犯してしまう。
「……ごめん。こんな事、言うべきじゃなかった。俺はもう、ダメだ。底辺に生きる人間が、誰かを幸せにしようなんて、それで幸せになろうだなんて、ただの思い上がりだったんだ」
「……キョウスケが自分を呪うなら、私が、全てを赦すから」
リタの身に纏う空気が変わる。
「私たちの間に必要なのは、たったそれだけ。キョウスケの過去も今も未来も私が抱きしめる。人間の醜さも愚かさも、その全てを赦す。そうすれば、私たちの間に、過去によって築かれた理想の歪んだ世界ではなく、現実から切り離された新しいまっさらな世界が生まれる」
「……リタ?」
「皆、孤独に苛まれている。孤独こそ命あるものにとって最も辛いもの。生きる苦しみよりも死の恐怖よりも耐え難いもの。でも、そんな単純な事に気づかずに、情報に溢れた社会で築いたそれぞれの常識を前に見えなくなっている。例え、友達でも恋人でも家族でも、たった一つの事に気づかずに、そばに居るのに孤独が二つ分生まれる事もある。今の私たちの様に」
懸命に理解しようとするも、唐突すぎて追いつかない。
「キョウスケ、今すぐ私を抱きしめて」
そして、リタは大きく腕を広げる。
「ようやく、わかったの。たったこれだけ。これ以上のものはいらない。私は、この想いを分かち合うためにここにいる」
訳もわからぬまま、俺はゆっくりと引き寄せられる様にリタを抱きしめる。
「あなたは、独りじゃない。もしも自分の人生を嘆くなら、私はキョウスケの心の中に住み着いてでも叫び続ける。キョウスケは私を孤独から救い幸せにできた、そんな力を持っているって事を。こんな世界で、お金も名誉もなくても、誰かと繋がり生きていける力があるのだと」
「……まるで、別れの言葉じゃないか」
彼女は何も答えない。
「俺は、どうなってもいいから、リタと生きたい。俺が生きるべき社会を捨てて、リタと過ごしたい」
「ああ、このまま世界が終わってしまえばよかったのに。でも、キョウスケの世界はどこまでも続いていくの」
「残りは、たったの数十年だろ。捨てるに値する時間だ」
「違うの。これは、人類の歴史じゃなく、キョウスケのものだから。それが全てだから。どれだけ辛くても、報われなくても、ヒトとして生まれ人間として誰かと生きて、生まれてきてよかったって思ってほしい」
「そんな事はわかっている。でも、俺はその上で、リタと一緒にいたいんだ。それとリタを秤にかけて、それでも、リタと時間を共にしたい」
俺は、卑怯だ。
「嬉しい。キョウスケ、嬉しいよ。でも、悲しいよ。キョウスケが幸せになれない世界も、優しさに意味がない世界も、全部。その中でもね、一番悲しいのは、キョウスケが何処にもいなくなる事。社会なんてもののために弾き出されていなくなるなんて、悲しいよ」
呪い、その言葉を不意に思い出す。
いや、違う。
これは、祝福だ。
リタの純真なる願いだ。
全ては俺次第、俺の行動次第で、リタのこの世界への在り方が決まるんだ。
「……リタ。俺、もっと強くなるから、見守っていてほしい。リタのために、強くなってみせるから」
「うん。命が尽きるまで、ずっとキョウスケのそばにいる。キョウスケが前に進むなら背中を支えるし、疲れた時は休める場所になるから。生きて」
お互いの心臓の鼓動が響き合う。
そうだ、俺はまだ生きているじゃないか。
自分の意思もあるし、自分の意思で動かせる身体がある。
何でも出来る、何度でもやり直す事が出来る。
俺は、リタと共に今を生きている。