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リタが家に来てから数日が経ち、惨めだった日常に彼女の存在が介入してから俺は幸せというものを噛み締めていた。

家に帰ればリタが存在し、仕事中でも昼になれば彼女が作ってくれた弁当を食べる。

そのおかげで仕事にも張り合いが出る様になった。

そして、休日すら待ち遠しく思える様になった。

今週末、リタのために買った服を着てもらい一緒に外出するつもりだ。

明日に希望が持てる事が、これ程素晴らしいとは思っていなかった。


それなのに、いつだって人間という生き物が全てを台無しにする。


職場の廊下を歩いていると、前方に松嶋と他の従業員二人の姿が見える。穏やかじゃない。

中年の男がニヤニヤしながら松嶋に詰め寄っている。

俺は足を早め近づくと、あちらもこちらに気づく。


「お、ペアの登場だ」


「何をしている」


「言わなくてもわかるだろ?俺と組まないか勧誘してるんだ」


その後ろの男もニヤニヤした顔を見せている。

何を言われたのか、松嶋は涙目になって怯えている。


「訳がわからない。松嶋、行くぞ」


「かっこいいねぇ。さすがは夜の女だ、男をたらし込むのが上手い」


「は?」


「なんだ、知らないのか。そいつ、ここに来る前は夜の仕事をしていたんだぜ。社内で噂にもなっているんだがな」


どうやら、こいつらとは思考回路が違う様だ。

何を言っているのか理解できない。


「お前も色々といい事をしてもらったんだろ?だからさ、独り占めしないで同じ底辺同士、楽しみを分け合おうぜ」


不愉快だ。


「なぁ、金は出すからさ──」


俺はその男の胸ぐらを掴み思い切り廊下の壁に押し付ける。


「な、何をしやがる!」


「薄汚いジジイが発情しても迷惑なだけなんだよ。性欲しか残ってない惨めな人生を送っているなら、さっさと首を吊りやがれ」


「な、なんだと、なんて言ったんだ!」


「耳が悪いのか頭が悪いのか知らねぇが、さっさと死ねって言ったんだよ。クソが、邪魔なんだよ」


怒りよりも戸惑いが上回り慌てるクソ野郎の様子を見て更に不快感が募る。

このまま殺す事が出来たのなら、ここはどれほど綺麗な世界になるだろうか。


「おい、何やってるんだ!」


その時、高橋課長の怒声が響く。


こちらに走ってきた彼女は俺の目の前に割り込み、俺の手を男から引き剥がす。


「黒崎、説明しろ」


「この男が松嶋にセクハラをした、以上です」


「……そうかい」


課長は松嶋の様子を窺い、こちらの言い分の正当性を理解したのだろう。


「話は後だ。お前ら二人は仕事を始めてくれ」


「いいんですか」


「仕事が山積みなんだ。松嶋の様子を見て、無理そうだったら早退させていいから」


おそらく、それが松嶋に一番ストレスがかからないと考えたのだろう。

俺も、そちらの方がありがたい。


「わかりました。松嶋、行こう」


無言でついてくる松嶋。

もう駄目かもしれないな。



帰宅する様に促したが、何の使命感か仕事着に着替えてやってきた松嶋。

仕方がないので仕事を始めたかものの、トラックの隣の席で彼女は陰気を出し続けている。


「……軽蔑しましたか」


「別に」


「嘘だ。センパイ、潔癖そうですもん」


松嶋が過去に何をしていたかなんて関係ない。

今はただ家に帰りたい、その気持ちだけだった。


「でも、生まれた環境が悪い女なら、そうなるのは必然でしょ?今の時代、珍しくもないし」


彼女は誰に言い訳をしているのだろうか。


「……嫌わないでください。ここで働けなくなったら、私、もう行くところがないんです」


「大袈裟じゃないか?」


「何処に行っても、あんな奴らばっかなんですよ」


「だったら、別の街にでも行けばいいんじゃないかな」


親切心で言ったつもりだが、彼女には冷たい言葉として受け取られてしまったかもしれない。


「それは、出来ません。ここでやるべき事があるんです」


「そうか」


掘り下げても面倒なだけだ。


「ここに居られなくなると、何処も行く当てがなくなってしまうんです。だから、センパイ、通勤時間を合わせてくれませんか。それだけで、いいですから」


「……まぁ、それで解決するなら別に構わないが」


これ以上、余計な騒ぎを起こしたくはない。

それで丸く収まるのなら甘んじて受け入れよう。



「おかえりなさい」


「ただいま」


帰宅し、そのまま俺は着替えもせずに部屋の床に横になる。

普段なら、彼女の手料理の匂いに喜びを噛み締めている所だ。


「どうしました?体調でも悪いのですか?」


心配そうなリタの声。

彼女の存在が、今日の出来事の愚かさを浮き彫りにさせる。


「人間というものに、心底嫌気が差す」


この様子を見て心配したのか、リタが俺の横に座る。


「どうして、あれほど簡単に平気で他者を侵害する事が出来るんだ。人類に自滅の遺伝子が組み込まれているからか?どうして、あいつらは平然な顔をして生きていけるんだ、どうして俺もああなれないんだ」


「それは、キョウスケが正しくあろうとしているから、醜い世界に見えてしまうのではないですか。自分の事だけを考えるなら、こんなに生き易い社会はなく、悩む必要もありません」


「それじゃあ、俺が馬鹿なだけじゃないか」


二人の時間に、こんなものを持ち込むべきではないのに。

リタに悩みを聞いてもらいたい、そんな下卑た欲が顔を出してしまう。


「ずっと前から思っていたんだ。ラヴァーソウルみたいに、生きる理由がはっきりしていれば、こんなことにはならなかったのに。チープだけど、人間が誰かを愛するために生まれる生き物なら、こんな醜い世界にならなかったのに」


「そうは思いません。むしろ、何の意味も持たず生まれたヒトだからこそ、素晴らしいのです」


「冗談だろ?」


「いいえ。絶対的なものがない、空のままで生まれるから、何度でも間違える事が出来る。目の前の命の為なら、何度間違えてもいい。そうして、際限なく成長する事が出来る。キョウスケの言う様に愛のために生まれ間違えない生き物なら、きっと取り零しが生まれてしまう。より多くのヒトが笑える様に、ヒトは何も持たずに生まれたのです」


何を言えばいいのだろうか。

今、口を開けば否定の言葉以外は出なさそうだ。


「そうですよね。確かに今は、そう思えるほどの世の中ではないかもしれません。でも、だからこそ、私の事を想ってくれるキョウスケと出会えた事が、たまらなく嬉しいのです。悩みながら楽になろうとしない貴方が存在してくれたから、私は今、ここで希望を謳えるのです」


胸に湧き上がる喜び。

俺の存在を肯定する言葉一つで、心の中の暗い過去が晴れそうになる。

そうだ、どんなに偉かろうと、どんなに貧しかろうと、ここがどんな世界であろうと、どんな人間でも関係ない。

ただ、目の前の命に向き合うだけ、それだけが全てなのだと。


そう思うのに。


「でも、俺は、誰かを憎んでしまう。今日だって、どうしようもないクズ相手に苛立ちをぶつけてしまった。聖人君子になれはしないんだ」


「皆を愛そうなんて考えなくていい。一人分の優しさを持っていれば大丈夫、私はそう思います」


それは、自己が肥大化し現実が見えていない俺を突き刺す言葉だった。

人間とは何ぞや、と語る前に目の前のものに向き合えばそれでいいと。

それでも、俺は。


「俺は、リタに対する優しさしか持てそうにない。いっそ、何処か、誰も居ない場所でリタと二人きりで過ごしたい」


「でも、ヒトはヒトと共に生きていかなければなりません」


「でも、リタが俺の目の前に現れた」


「それは……」


駄目だ、こんな事を言うべきではない。

俺に幸せを与えた上で真っ当な生き方を示してくれている彼女に癇癪を起こしてはいけない。


俺は体を起こしリタに向き合い、渦巻く感情を飲み込み誠実な気持ちをぶつける。


「ごめん、ガキみたいな事を言ってしまって。俺はリタと出会えてよかったと思っている。だから、俺がまともな人間になれるまで、これからも傍で見守ってくれないか」


「もちろんです。よかった、気に障る事を言ってしまったのかと」


胸を撫で下ろすリタ。

この聖域だけは、何としても守らなければいけない。

俺と彼女が違う生き物だったのだとしても、今の俺にとって二人で築く時間こそ幸福なのだから。

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