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開闢記

作者: 星河雷雨


 

 一、現




 時は嶺玄れいげん五年。


 現在の(ろう)国が(しん)と呼ばれていた時代、時の皇帝紅宗(こうそう)帝の(もと)に、一人の高官がいた。


 偏屈でしかめ面をしたその高官はしかし非常に優秀で、皇帝の覚えはめでたかった。年の頃は三十半ば。


 その高官の名を高侶瑛(こうりょえい)という。




 その侶瑛が二年の地方赴任から戻った初日のこと、侶瑛は玉座の前に膝を折り、深く頭を垂れていた。


 侶瑛の目の前におわすのは、その一睨みで獅子さえ殺すと言われる紅宗帝である。


 紅宗帝からの許しを得た侶瑛が面を上げると、獣の如き獰猛さを秘めた目が侶瑛を見つめていた。


 紅宗帝の覚えめでたく付き合いの長い侶瑛だったが、いまだにこの皇帝に正面から見つめられると、背中に冷たい汗が伝った。


「侶瑛よ。二年の勤めご苦労だった」


「は。我が皇帝」


 紅宗帝が先帝を討ち、辰を平定してから五年。二年前に中央がようやく整ったのを確認してのち、有能な高官である侶瑛は国政の整備のため各地方へと赴き、それから今日までの間国中を飛び回っていたのだ。


「それでな。三年程前、(れん)の使者が貢物として持ってきた不老不死の妙薬だがな。あの……真っ赤な液体のやつ」


「は」


 唐突に話を切り替えた紅宗帝をいぶかしみながらも、侶瑛は努めて記憶の底をさらった。


 すると確かに三年前、侶瑛が地方へと赴任する以前、不老不死の妙薬と称して紅宗帝への捧げものがあったことが侶瑛の記憶に残っていた。


 しかし不老不死の妙薬など、そんなものは人の欲が作り出した幻である。これまでにも多くの者が不老不死、不老長寿と名のつく怪し気な薬もどきを紅宗帝に献上してきたが、しかしそのどれも偽物だったはずだ。


「あの妙薬は、どうやら水に棲む魔物の血のようだ」


「魔物……でございますか。魔物は祟ると申します。かような代物を献上するとは……」


「なるほど、祟るか。なればこそかもしれんな。侶瑛よ。あれなるは本物の妙薬だったぞ」


「……は?」


 今しがた己が耳にした言葉の意味を理解しそこね、侶瑛の放った言葉の語尾が歪に跳ねた。


「まあ、不老かどうかはまだ二年しか経っておらんから定かではないが……不死に関しては断じてもよさそうだ。二年前にその妙薬を与えた蝶が、今に至るまで元気に儂の部屋を飛んでいるのでな」


「それは……同じ蝶でございますか? また季節問わず存在していると?」


 研究者たちが紅宗帝の怒りを恐れ人目を盗み蝶を交換したということは大いにありうることであるし、季節を問わず羽ばたかせることも、蛹のいる室温を調整するなりすれば羽化の時期を操ることで可能となる。


 しかし紅宗帝からは返って来た答えは、侶瑛の考えを否定するものだった。


「もちろんだ。この二年間、その蝶を目にしない日はなかった。あれは同じ蝶だ。片羽に儂しかわからぬよう墨で印を付けたから間違いない」


 だが、紅宗帝は侶瑛がまだ心から納得していないことを悟ったのか、なおも言葉を続けた。


「侶瑛よ。儂は不老不死などに興味はない。妙薬の研究は、なんらかの病に効く薬が出来るのを期待してのことだ。だから儂の怒りを恐れた研究者たちが蝶をすり替えたなどということもない。国随一の研究者たちがこの二年、実験に実験を重ねて出した結論が、あれは(しん)に、不死の妙薬であるとのことだ」


「実験……蝶一(とう)での結論でございますか?」


「実は蝶だけではない。ちょうど実験の素材には困っていなかったのでな」


 紅宗帝の不敵な微笑みから、侶瑛は紅宗帝の言わんとしていることを読み取った。


 紅宗帝が皇帝になったのは五年前。五年前には多くの反逆者が捕らえられている。極刑になった者もいたが、沙汰が下るまでただ牢を圧迫していただけの者たちもいた。おそらく紅宗帝はそういった者たちを実験に使ったのであろう。


「その……実験の結果が、彼の薬は(まこと)、不死の妙薬であると……?」


「そうだ。すでにこの二年、あの薬を飲ませた者たちによって結果はでている。しかし、結果は良好とは言えん。不死にはなったが、ほとんどの者は人ではなくなった。加減が難しいそうだ。……蝶にはこれといった変化は見られないのだがなあ」


 紅宗帝の視線が、目の前にいるはずのない蝶を追うかのように横に流れた。


 一体どのように人でなくなったのか、侶瑛は聞かなかった。外見の問題が、精神の問題か。どちらにしろ聞いていて気持ちの良い話ではないと思われたからだ。


「……その妙薬。どうするおつもりですか?」


「なに。使うときが来るまで蔵にでも仕舞っておこう。不老不死の妙薬だ。よもや妙薬自体が腐ることもなかろうて」


 呵々と笑った紅宗帝に対し、侶瑛も笑みを返した。




 二、酔




 蝶のようにひらひらと舞う女たちを陶然と眺めながら、侶瑛は盃を傾けていた。


 目の前には肉、魚、穀物、季節の菜に加え、口が広く浅い杯に梨や桃が山のように盛り付けられている。それは今宵、二年の勤めから帰って来た侶瑛に対し、紅宗帝が用意した豪華絢爛な宴だった。


「西方から取り寄せた、珍しい葡萄から作ったお酒でございます」


 いつの間にやら、侶瑛の傍には滴るばかりの美女が侍っていた。


(なんと美しい……)


 侶瑛はしばし、女に見蕩れた。


 女が二つ持っている酒壺の内の一つを傾け、侶瑛の持つ盃に酒を注いだ。どろりと赤い、濁った酒だった。その酒を見て、侶瑛は眉を顰めた。


「……濁っているな。あまり質の良いものではないのか」


 侶瑛の問いに、女は小さな口から弱弱しくも艶めかしい吐息を漏らした。


「まさか……。そのようなものを紅宗帝の覚えめでたき侶瑛様に献上するわけがございません。この酒はこれで良いのでございます。疲れに良く効く、妙薬が入っております故」


 黒く輝く女の射干玉の瞳をしばし見つめてから、侶瑛は盃に注がれた血のように濁った酒に視線を移した。


「妙薬、か……」


 試しにと口に含んでみた酒は、雑味はあれど、やはり侶瑛の良く知るただの葡萄酒だった。


 反応の薄い侶瑛に対し、女が強引にまだ口を開けていない方の酒壺を胸に押し付けて来た。


「どうぞ。お納めくださいませ、侶瑛様。極上品でございます」


 飲んだ限りは、なんてことのないただの葡萄酒である。侶瑛ならばもっと良い酒を手に入れることも出来る。


 だが女の美しい黒髪や、濡れたような黒い瞳、蠱惑的な微笑みに柄にもなく浮かれたせいもあり、結局侶瑛はその女から酒壺を受け取ることになった。





 城内に宛がわれた己の部屋へと戻り一人になった侶瑛は、女から貰った酒を開け、盃についだ。


 酒はやはり血のように濁っている。


 濁った赤い液体を少量口に含み飲み干した瞬間、侶瑛は喉と胃に強烈な熱を感じた。


「……かなり強いな。これは先ほどとはまた違う葡萄酒か?」


 先ほど宴で女に注がれた酒は、この酒程強くはなかった。そもそもこの国で作られる葡萄酒は口当たりは良いが度数はそこまで高くはないものが多い。妙薬が入っていると言ってはいたが、それだけではあるまい。安い酒で嵩増しをしているはずだ。


 女は極上の酒などと嘯いていたが、この酒はかなりの粗悪品だと侶瑛は当たりを付けた。


「女も騙されたか……俺にはこの酒程度が似合いだと、そう考えてのことか」


 侶瑛は平民の生まれだった。旅をしながら商売をしていた侶瑛の両親は、この国の農村に流れつき、定住した。


 当時はどこの国でも戦に明け暮れており、旅暮らしをするにも限界が来ていたのだという。人気のない場所で賊に襲われることも増えていたらしい。


 定住するということは戦に駆り出される恐れもあったのだが、それでも中央から離れた田舎の生活は、根無し草の生活を送っていた時よりは遥かに恵まれていたと、両親は折につけ言っていた。暮らしは貧乏だったが、自分たちの畑を持つことが出来たので喰うに困ることはなかったと。


 自然以外何もない田舎で生まれた侶瑛だったが、生来優秀だった。以前教師をしていたという近所の老人から教えを請い、老人の持っていた少なくない数の書物を読み漁り、そのおかげで成人してのちは中央へ行き、試験を受け官吏となることができた。


 そこでまだ一兵卒だった頃の紅宗帝に出会い、それからずっと今日に至るまで傍にいたのだ。


 生まれ持った身分の低い侶瑛のことを皇帝付きの高官となった今でも軽んじる者たちはいたので、今回のことはおそらくは、そういった者たちの差し金だろうと思われた。


(ふん。酔いが醒めた)


 侶瑛は盃に酒を残し水場へと赴き、桶に溜めた水を使い、布で身体を拭いた。


 身体全体を拭き終わり服を着替え寝台に横になると眠気はすぐにやってきて、一呼吸、二呼吸と数えるうちに、侶瑛はそのまま泥のような深い眠りへと誘われていった。




 深夜、侶瑛は胃の不快感で目を覚ました。


 薄っすらと開けた目には涙が溜まっている。身体の状態を確認すると、すぐに胃の不快感だけではないことに気が付いた。


 手足のしびれに、呼吸の乱れ。心の蔵がまるで別種の生き物のように脈打っている。


 急激に胃から競りあがってきた吐き気に、侶瑛は残された僅かな力を振り絞り、吐瀉物を喉に詰まらせぬため身体を横向きにした。


 すぐさま暗闇の中でさえもなお赤い吐瀉物が、真っ白い寝台の上に広がった。


 口の中に感じる苦みと、鉄臭さ。


 謀られたと、そう理解したときには時すでに遅く、吐瀉物が通過した胃から喉にかけてが燃えるように熱くなり、尋常ではない痛みが侶瑛を襲った。


(毒だ……。あの酒以外には考えられん。まったく、めずらしく色気など出したものだから、とんだ目に合った)


 頭痛と、更なる吐き気。何度か胃の中の物を吐きだしたあとは全身の震えと、脳髄を直接揺さぶられているかのような不快感が侶瑛を襲った。


 侶瑛はまだわずかに動く手を、寝台のすぐ傍にある机の上、水の入った碗に伸ばすも、しかしその手は椀に届くことなく、寝台の外へと放り出された。




 三、夢




 意識を失ってからしばらくのち、ボキボキという細い棒を折るような音で侶瑛は目を覚ました。全身が水をかけられたように汗で濡れている。しかし己の現状を正確に把握する間もなく、その後すぐに襲ってきた痛みに、侶瑛は呻き声を漏らした。


 骨が折られている。


 一瞬拷問されているのかとも思えたが、それにしてはあまりにも骨の折られる箇所が多すぎた。ほぼ全身である。これでは知りたいことを聞きだす前に、拷問を受ける側が意識を飛ばしてしまう。


 否、と侶瑛は思った。


 侶瑛は今のいままで意識がなかったのだから、これは拷問ではない。あるいは、侶瑛に対する紅宗帝の寵愛を嫉んだが為の、ただの私刑かも知れぬと考えた。


 侶瑛が考えを巡らせている間にも、骨は不快な音を立てて割れ続けていた。まるで鼓を叩かくかのように次々と規則正しく折れる骨の音は、いっそ小気味よい程だった。


 この甚振りはいつ終わるのかと侶瑛が朦朧とした頭で考えていると、突如、静寂が訪れた。


 しかし静寂は一瞬で、次の瞬間には身体中に烈火のごとき熱が広がった。


 視野が狭まり、狭まったかと思ったら、今度は己の背後まで到達するのではないかと思うほどの広がりをみせた。


 次いで、視界が反転。


 ぐるりと視界が回ったかと思ったら、場面までもが回転した。


 まるで下手な劇を見せられているように、次々と唐突に場面が飛んだ。


 己の寝室を抜け、天井を翔けたと思ったら、次の場面では厨房にいた。途中出会う誰も彼もが眼を見開き、表情を歪め、ある者は恐怖に泣き、ある者は怒りのままに声を荒げている。


 突拍子もない劇である。そして少々趣味が悪い。


 だが新しい、と侶瑛は思った。


 これほど急激な場面展開など、通常の劇では見ることは出来ない。


 しかも、何者かの目線で進む劇など、侶瑛はこれまでに見たことがない。


 ふいに、侶瑛の口から笑いが零れた。


 そうか。宴はまた続いていたのだ。これは余興だ。


 侶瑛のために紅宗帝が用意した、余興なのだ。


 侶瑛はそう、得心した。そうと分かれば、あとは容易かった。侶瑛はただ、この余興を楽しめば良いのだ。


 低くなり、高くなったかと思えば、突如真横に移動する視界。


 何者かが風を切り、地面を蹴る。すると、まるで侶瑛自身が四つ足の獣となったような心地を覚える。


 何者かが天高く跳躍する。すると、まるで侶瑛自身が鳥になったような感動を得た。


 実に愉快、と侶瑛は声を上げて笑った。


 侶瑛が笑うから、何者かも笑うのか。


 何者かが笑うから、侶瑛が笑うのか。


 すぐに区別はつかなくなった。




 その後侶瑛はしばらくの間風にでもなったように気の向くまま自由に走り回っていたが、ゆく先々に被害をもたらした。


 足元には大量の死体。


 首が、腕が、脚が、まるで倒木のようにそこらに転がっている。その死体を蹴散らしながら、侶瑛の視界で、また劇は進んでいく。


 駆ける床一面が、血で濡れている。赤く、黒く、まるであの葡萄酒のように濁っている。そのたぷんと揺れた酒の中から、赤茶けた岩が侶瑛を見つめていた。


 よく見ればその岩には二つ、濁った水晶が嵌っている。


 これは珍しいと思った侶瑛が思わずその岩に手を伸ばせば、思いもかけず岩が遠のいた。さておかしなものだと喉を震わせた侶瑛は、そのまま笑い続けた。侶瑛の笑いにつられたのか、岩も笑いはじめた。


 可笑しい。可笑しい。可笑しい。


 何が可笑しいのかもわからぬままに、侶瑛は笑い続けた。


 侶瑛はさらに手を伸ばし、岩を地面からもぎ取った。よく見ようと己の目に近づけてみると、濁った水晶の真ん中は、更に濁っていた。


 それが可笑しくて、侶瑛はまた笑った。


 濁った水晶が己を見つめる様が、可笑しくて仕方がない。


 なんと、なんと愉快な宴だ――。


 侶瑛は思う様、喉と、空気を震わせた。




 場面は更に飛び、侶瑛はついに、玉座の間にやって来た。


 侶瑛はその場にいる筈の主の姿を探すため、視線を巡らせた。だが兵士ばかりが目につき、紅宗帝の姿は見つからない。


 なおも紅宗帝を探そうと動く侶瑛の視線に合わせ、顔に恐怖を張りつかせた兵士たちが、右往左往に散らばった。槍と剣を構えた兵士らが逃げ惑う姿は、哀れを誘う。


 蜘蛛の子を散らすようにいなくなった兵たちの後ろ、侶瑛の目に映ったのは、顔面の色を失くした紅宗帝だった。


 普段の主らしからぬその様子を不審に思い、侶瑛は紅宗帝に近付き、その両の目を覗き込む。すると、その黒曜の如き二つの玉の中から、真っ赤な目をした化け物が見つめていた。


 ああ、これは違う。紅宗帝ではない。


 我が主は化け物に乗っ取られてしまった。


 私の、私の、私の主を。


 この化け物は――。


 激高した侶瑛が眼前の化物を薙ぎ払う。


 己が噴き出した血の海に沈む化け物の姿を認めた侶瑛は、抑えがたい高揚感の中、高らかに笑い声をあげた。




 四、幻




 気付けば侶瑛は、玉座に泰然と腰を降ろす紅宗帝を前にしていた。


「まったく、毒を盛られるとは。あのまま死ぬかと思ったぞ。よくもったな、侶瑛」


 目の前にいる紅宗帝の姿を認めた侶瑛は、昨夜のことはやはり毒が見せた悪夢だったのだと悟った。それもそのはず、あのような余興を紅宗帝が用意するはずはないのだ。


 夢の中の侶瑛はあの余興を楽しんでいたが、目を覚ましたのちは己のあまりの趣味の悪さに、辟易としたものだった。ましてや己の主の死を予見するかのような夢を見るなど、あまりにも不敬、不吉である。


 しかし夢で良かったと思う一方、侶瑛は己の現状を不思議に思っていた。


(はて……私はいつ、目を覚ましたのだったか……)


「昨夜のお前は、本当に酷かった。酒と毒のせいだろうが、あれほど荒れたお前を見たのは若い頃以来だ」


「……無粋な姿をお見せいたしました。申し訳ございません」


 とはいえ、侶瑛自身はといえば、悪夢を見ていた以外の昨夜の記憶がまったくない。いつ目覚め、どうやってこの場にいるのかさえ、思い出すことが出来ないでいるのだ。


 昨夜は一体、主の前でどのような醜態を見せたのか。考えるだに恐ろしかった。


 だが目の前にいる主は、そんな侶瑛の失態をさして気に留めている風もない。それだけは幸運であったと侶瑛は内心で大きく嘆息していた。


「なあ、侶瑛。思っていたよりも人の命というものは儚いものなのかもしれぬな。儂とて、明日にはすでにこの身を冥府へと落としているやもしれん」


「お戯れを……」


 一体紅宗帝は何を案じておられるのか。その一端は毒にやられた己のせいであるとはいえ、もしや己のいない間に何か問題でも起こったのではあるまいかと、いつになく感傷的な主を前に、侶瑛はわずかに眉を顰めた。


 途端に、昨夜の悪夢はよもや正夢ではなかろうかという不安が、顔を覗かせる。


「しかしなあ、侶瑛よ。昨日言ったように、儂は不老不死などに興味はないのだ。人はいつか死ぬものだ。人だけではない。命あるもの、形あるものには、必ず終わりの時が来る」


「は」


「儂は不死には興味がない。だが儂の造った国がこれからどのような行く末を辿るのかには興味がある。そこでだ。お前にはこの国の開闢記(かいびゃくき)を作成してもらおうと思っている」


「開闢記……でございますか」


 紅宗帝の意図がわからず、侶瑛はただ主の言葉を繰り返した。


「そうだ。すでに始まりは過去のこと。それは良い。回想と記録から作成すれば良い。だが終わりは……儂の造った世が、人の一生程度で崩れるとは思えんからな」


 ようやく紅宗帝の意図を読み取った侶瑛は、顔を蒼褪めさせた。


 昨夜侶瑛が飲んだ酒には、「妙薬」が入っていると女は言っていた。


 人の一生では追いきれぬ、国の興亡。


 その記録を、紅宗帝は侶瑛に託すという。


「……まさか」


 ますます顔色を悪くする侶瑛を見て、紅宗帝が歯をむき出しにして笑った。


「暇を出そうぞ、侶瑛。一生を二度経験しても、使いきれぬ程の財を渡そう。それを持ってこの国から出て行け。国の外から、この国を見るのだ。儂の国がこれからどう栄え、そしてどう滅びていくのかを、お前が見届けよ」


 ――もしや、と。侶瑛が考えなかったわけではない。


 おそらく、侶瑛に毒を盛ったのは敵対する高官であり、その高官は女を使い、まんまと侶瑛に毒入りの酒を飲ませることに成功した。だがそれら一連の動きを、本当に紅宗帝は掴んでいなかったのだろうかと。


 紅宗帝は抜け目ない。飼っている狗は侶瑛以外にも大勢いるのだ。


 だが――と侶瑛はすぐさまその考えを頭から振り払った。主を疑うなどどうかしている。たとえ侶瑛の考え通りに紅宗帝が今回のことを事前に知っていたのだとしても、臣下たる侶瑛に主の行いを咎める権利などありはしないのだと。


「どうした?」


 侶瑛の心を知ってか知らずか、紅宗帝が侶瑛に向かっていつもの笑みを見せた。だが不思議なことに、その紅宗帝の姿は、侶瑛の目にはなぜか若き頃のように雄々しく映った。


(……紅宗帝はいささか若返ったのではあるまいか)


 紅宗帝は侶瑛よりも十ばかり年嵩だ。侶瑛が三十も半ばであるから、紅宗帝はすでに四十も半ばに到達している。であるというのに、髪にも肌にも艶が戻っており、時とともに刻まれたはずの皺はどこにも見当たらない。


 しかしふいに一瞬、侶瑛が二度瞬きをしたその刹那の合間に、紅宗帝の雄々しい姿が玉座ともども血に染まり、また元の姿に戻った。


(……いかん。これはまだ酒と毒が残っているようだな)


 侶瑛は幻を追い払うよう、緩く頭を振った。


「疲れておるようだな。侶瑛」


(疲れている? ……いや、そんなことはない。まるで新たな身体を得たように、活力が漲っている)


「お前にはこれまで随分と世話になった」


「……勿体なきお言葉でございます」


 万感の想いで、侶瑛は頭を垂れた。


「侶瑛」


 呼ばれた侶瑛が顔を上げれば、まるで汚泥のように濁り、精彩を欠いた瞳が侶瑛を見つめていた。かつてその一睨みで獅子をも殺すと言われた瞳とは、到底思えぬ変わりようだった。


 蠟のような肌。乱れた髪。光を失った両の目。


 目の前にいる男は、一見する限り幽鬼とそう変わらぬ風体だ。


(若返ったと見えたのが、幻だったか。疲れているのは、紅宗帝のほうだ……)


「何でございましょう」


 侶瑛の問い掛けに反応し、紅宗帝の色を失くした唇がもごもごと牛のように蠢いた。



「真実をその(まなこ)で見定めよ」



 その勅は敵国を滅ぼせと言われるよりも、難しいものだった。


 真実は人の数だけ存在する。そして――たとえ目の前に真実があったとしても、人は己の見たいものしか見ることは出来ないのだ。


 だがいくら暇を出されたとはいえ、侶瑛の主は、生涯紅宗帝ただ一人。主君の勅命を断ることなど、出来るわけがなかった。


「――御意に」






 石造りの高い城門。


 そこを護る兵士に一礼をして、侶瑛は門を潜った。


 そのまま真っすぐ前だけを見て侶瑛は歩き続けた。しかし半里ほど歩いたところで歩みをぴたりと止め、侶瑛は後ろを振り返った。蛇のようにうねった長い一本道が城壁へと続いていた。


 じっと見つめていた侶瑛の瞳に、一瞬堅固であるはずの城門と、その向こうに見える城に、朽ち果て崩れたその姿が重なる様が映った。その幻影を振り払うように侶瑛は強く瞼を瞬かせた。


(まだ毒が抜けきっていないのか……)


 侶瑛は昨日から奇妙な幻影に囚われている。若返った主。血に濡れた玉座。そして先ほど見た、朽ち果てた城門と城。


 幻だとはわかっていても、そのあまりの鮮明さに、侶瑛はつい意識を飲まれそうになった。


 一度大きく頭を振った侶瑛の瞳には、すでにいつもの泰然とした城壁と城の姿しか映らなかった。そのことに安堵した侶瑛は、安堵した己の心を訝しむ。


(何を案じているのだ、私は。紅宗帝のおわす城に、何かなどあるはずがない)


 侶瑛が生まれ落ちた辰の国。


 長く戦に晒され疲弊したこの国は、紅宗帝によって平定された。


 比類なき勇と武を備えた、侶瑛の主。その主たっての願いを叶えるために、侶瑛は今から永い、永い旅に出るのだ。


「まったく……因果なものだ」


 旅をしながら商売をしていた両親がこの国に流れ着いたことで、今の侶瑛がある。自分は両親のような生き方をすることはないだろうと思っていただけに、今回の件には人智を超えた不可思議な縁を感じざるを得なかった。


 侶瑛はわずかばかり胸にこみ上げて来た郷愁を、目を瞑り、無心になることで押さえつけた。そしてもう一度振り返り、国の姿をその目に焼き付けてからまた、これから己が進むべき道へと向き直った。


 侶瑛は己の胸に手を当て、その衣の下にあるものに意識を集めた。


 この国の行く末を綴るため、紅宗帝より賜りし御物。玄青の地に金を散らした、絢爛たる外装の巻物。その巻物を服の上から撫でつつ、侶瑛は心の内を零した。


「……さて、今回の勅はちと難しいな」


 紅宗帝は、侶瑛が飲んだ「妙薬」を不老不死の妙薬だと思っているのだろう。そして、侶瑛が不死になったと思い込んでいる。だからこそ、このような無茶な勅を下したのだ。


 しかし侶瑛はすぐに己の考え違いに気付き、微かな笑いを零した。


 己は主の考えを読み間違っている。侶瑛が不死であろうとなかろうと、おそらく紅宗帝にとってはどうでも良いことなのだ。


 そしてそれは侶瑛とて同じこと。


 ならばと、侶瑛はこれからの方針を定めた。


 きっとこの勅は侶瑛一人で成し遂げられるものではない。ならば跡継ぎを作らねばならぬ。この国の行く末を見届けるためだけの一族を。


 血は繋がっていなくとも良い。侶瑛の志を継ぐ者であれば、それで良い。勅を叶える手段など、何でも良いのだ。


 紅宗帝の作ったこの平な世を見届ける者であれば、それは誰でも、侶瑛でなくとも構わない。


 侶瑛はただこれまで通り、主の願いを叶えることだけを考えていけば良いのである。




 五、史




 時は過ぎ、尭嘉(ぎょうか)十七年。


 瑯国紫雲(しうん)省にある一軒の古びた邸から、十六巻の巻物が見つかった。一見してかなり古い時代のものと推測される『辰国開闢ノ記』と題されたその巻物には、今より二千年以上の昔にかつて実在した国、辰の興亡が記されていた。


 辰は歴史上最も長く続いた国であり、同時にもっとも不可解な終わりを迎えた国でもある。どの書物にも、かつて八百年の歴史を誇った辰は一夜のうちに滅びたと記されているのである。


 辰の歴史は今から二千年以上の昔、一人の男が天帝の命を受けその娘を妻とし、国を興したことが始まりとされている。男はそれまでの血に拘らぬ継体を崩し、血統によって国を治めることを良しとし、初代皇帝となった。男の名は李尊英(りそんえい)という。


 その後、尊英と天帝の娘の血を継いだ息子李倭候(りわこう)が辰国第二代皇帝となり、それ以降辰王朝はこの世においての栄華を極めるようになる。歴史研究者によってはこの倭候をもってして辰国の始まりとする者もいた。


 しかし次第に天帝の血が薄れ人の血が濃くなるに従い、人々は更なる栄華を求め戦に明け暮れるようになった。


 辰王朝末期の百年間は群雄割拠の乱世であり、その乱世を制したのが、辰王朝最後の皇帝となった紅宗帝である。


 しかし紅宗帝の在位期間は五年と短く、長い歴史を誇る辰王朝において最も謎に満ちた生涯を送った皇帝であるとされている。


 わかっていることは、紅宗帝が先帝の落胤であること、皇帝となる以前は魯紅倭(ろこうわ)を名乗り、皇帝となるにあたり李紅宗と名を改めたこと、わずか十年で類まれなる武勇と戦略をもって各地の戦を鎮め先帝を討ち国を治めたことのみである。


 しかも現在においてまで死因及び墓所が不明であるため、辰国を滅ぼしたのは紅宗帝本人であるとする説までもが唱えられている。


 ともかくこの紅宗帝という人物は謎めいた生涯という神秘性に加え乱世を治めたという英雄的な実績をもって、歴史研究者以外にも、特に市井の者に人気の高い人物なのである。


 今回見つかった巻物すべての巻頭には、この紅宗帝の印が押されており、研究者たちはその巻物の信憑性を確認し、謎多き辰国とその最後の皇帝に関する新たなる発見の可能性に沸き立つこととなった。


 今回の発見で辰が滅びたその真実の一端が紐解かれるかもしれないとなれば、研究者たちの一見大仰とも言える興奮具合も、当然のことであるといえた。


 だがその巻物を開き読み進めるうちに、研究者たちはその表情を大いに曇らせはじめ、そして読み終えた時には、すでにその両の目からは希望の光が失われていたという。


 その巻物には辰国の起こりからその終わりまでの約千五百年間のことが記されていたのだが、しかし辰の国が栄えたのはその国の興りから八百十五年間、嶺玄五年までのことであり、それ以降の六百八十五年間は辰とは別の国々が建国、衰退、滅亡を繰り返している。


 その巻物は巻頭と巻末に実在する皇帝の印まで押されているにも関わらず、壮大なる偽書であったのだ。


 真実を記さぬ偽書に、その歴史的価値はない。かくして、その巻物は研究者たちからは見放され、歴史の層に埋もれていく運命となった。




 六、考




 しかし、いつの世にも好事家という者は存在するものであり、何を隠そう、私もその一人である。私は専門である「辰王朝末期の天朝体制」を研究する傍ら、名のある歴史研究者たちが見放したその偽書の研究を続けた。


 この偽書には、辰を取り巻く事象を記した合間に、著者が旅によって得た知識、見分、あるいは生活具合に加え、過去や思想、はたまた著者の見た夢までもが随所で記されているのであるが、それがまた何とも味があり、好事家にはたまらない。


 さらには、巻物が偽書と判明してからは研究者たちからは愚にもつかないと断じられ顧みられることすらなかった冒頭、そこには平民として生まれた著者が紅宗帝に拾われ、この書を作成するに至る過程までもが事細やかに記されているのだが、特に著者が二年の地方赴任から帰ってきてから国を出るまでの一昼夜の出来事、これが正に奇々怪々の連続なのである。


 しかし、その偽書が面白いのはそれだけではない。


 歴史的事実としてみれば、辰が滅びたのは嶺玄五年であり、となれば、偽書に記されたその後の六百八十五年間は架空の歴史となる。だが、辰が続いていたとする誤り以外は、その巻物に書かれていた事象は、すべて歴史上のものと一致していたのである。


 しかもその六百八十五年の間に書かれたすべての巻物の筆跡までもが同一の人物であるとの結果が、この度専門機関の調べにより明らかとなった。


 複数の人物が専門機関によっても見破られぬほどに筆跡を似せている可能性は否定できないが、すでに結果は出ているのである。その結果を踏まえたうえでこの偽書の存在を見直してみれば、また違った側面が見えて来る。


 この約千五百年間の出来事を記した十六巻にも及ぶ巻物が一人の人物によって書き上げられたものとするならば、ある年月、具体的には著者が亡くなった以降の歴史上の物事と合致する箇所については、著者の予見、予知とせざるを得なくなり、そういった意味合いでも、この巻物は偽書である以上にある種の奇書であるといえるのである。


 かような偽書であり、奇書でもあるこの『辰国開闢ノ記』を記した著者の名は、高侶瑛。本人曰く、紅宗帝に使えた高官であるという。


 紅宗帝が辰を平定して数年ののち、二年の地方赴任を命じられた著者は、帰還した翌日には紅宗帝の勅を受け、この書の作成のため辰を後にしたと記されている。


 だがようやく二年の時を経て地方より戻った臣下に対し、歴史書の作成を命じたためとはいえ帰還した翌日には暇を出すなど、普通ならば考えられることではない。よほど急いでいたか、よほどの怒りに触れてしまったかのどちらかであろう。


 しかし放逐しようとする臣下に対し、皇帝の印を押した巻物を託すこともまた考えづらいことであるため、私はこの高侶瑛という人物が、実は紅宗帝より何等かの密命を帯び国を出た可能性すら考えている。


 とはいえ、そこはまだ研究の途中であり、世に発表するほどの成果は何ら持ちえていないのが現状である。現在までにわかっていることは、本報告書の第三章に載せてあるので、そちらをご参照いただきたい。


 なお、巻末に添付した『諸説辰国開闢ノ記』の一から六の内、一から四は、著者である高侶瑛が赴任先から戻り翌朝国を出るまでの一昼夜の内に起こった、紅宗帝からの突然の勅をも含めた不可解な出来事を、私なりの解釈と些かならぬ誇張を含めて記したものである。


 著者がどのような意図と真意をもってこの偽書を作成したのか、またその背景にある紅宗帝の真の思惑とは何だったのか。それを思えばこの偽書に関する私の興味は尽きることがない。


 否、こうして研究報告の巻末に己の夢想を載せる程度には、魅せられ、囚われているのである。


 さて最後に、この偽書の真偽を判断するための一助として、以下の一節を乗せておく。この一節は辰が滅びたのちの二十年後に書かれたさる歴史研究者の著作から抜粋した一節であり、私を荒唐無稽な夢想に走らせた元凶でもある。


 私の報告書も含め、真偽については各自、ご判断いただきたい。



《 ――嶺玄五年。


 八百年以上続いた辰王朝は、一夜のうちに滅びることとなる。


 堅牢、堅固たる城は崩れ落ち、城跡の瓦礫の下からは数えきれぬ程の死体が出て来たという。


 辰王朝が滅びた原因は明らかになってはおらず、ある魔物に滅ぼされたとも、あるいは天帝の怒りを買ったからとも言われている。


 辰王朝最後の皇帝の名は李紅宗。


 先帝を討ち、百年続いた乱世を平定した、希代の王である。


 また、その獅子の如き勇壮なる紅宗帝には、一人の優れた高官がいた。


 八百年続いた国が滅びた日、崩れた城門から一人出てきたのは、その高官だったと伝えられている。


 しかしよく国を想い、よく皇帝に仕えたとされるその高官の名は、現在までには伝わっていない――。》


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