1.練習室で
『まずは床を拭き清める』
内なる教師の声に従い、カイラは丁寧に床を拭いた。この数ヶ月、毎日のように磨き続けた床は、今やカイラの姿がはっきり映るくらいなめらかだ。ただ一点、部屋の中央に開けた小さな孔を除いては。
カイラは手にした銅の釘を、その孔にそっと差し込んだ。
『ここが陣の中心だ。ここから同心円を描いていく』
釘の頭に、端を輪にした糸をひっかけ、ぴんと糸が張るまで歩く。チョークを手に腰をかがめ、コンパスを使う要領で、ぐるりと円を描いていく。
『これが陣の外周だ。陣の内側で作業する時は、外周は完全には閉じずに隙間を開けておけ。これが術者の出口になる。反対に、内陣はどの円も必ず閉じておかねばならない』
カイラは糸の長さを調節しながら、外周の内側に円を二つ描き足した。それが済むと立ち上がり、ここまでの成果を確認する。
「出口よし。内陣はどちらも閉じている、っと」
『それができたら、いよいよ陣を埋めていく』
召喚術の教師ニッセは、毎回、一言一句変わらぬ言葉で手順を繰り返す。おかげで半年も経つころには、生徒たちはチョークを持つたび、頭の中でニッセの声が勝手に再生されるようになってしまう。
『十二方位は正確に。一分の狂いがすべてを駄目にする』
『筆圧は均一に。どの文字も、どの記号も同じ太さで書くのが望ましい』
作業に没頭するカイラの額に、うっすら汗が浮かび始める。窓の外の鳥の声も、訓練場で響く号令や木剣の音も遠ざかり、耳に入るのはただ、チョークが床を擦る音だけ。目に入るのは床に描かれた文字と記号だけだ。
『魔物たちは陣を通して術者を測る。こっちから奴らは見えないが、陣で繋がったその瞬間、おまえたちの本性は異界に丸見えだ』
これを言うとき、ニッセは決まって生徒たちをひとりひとり見まわし、乱杭歯をむき出してにやりと笑う。自身も使い魔である彼の言葉には、問答無用の説得力があった。
ニッセは、小鬼族の中でも最も醜いとされる戯鬼だ。ヒトの子供くらいしかない背丈に、緑色がかった肌。つるりとした禿頭から、尖った耳と大きな鼻が飛び出している。魔物たちの中でも最低ランクに属する彼が、なぜ王国の魔法の中枢で教鞭を執っていられるかといえば、それはひとえに彼を使役する主の口ききがあったからだった。
召喚士ザカーリ。王国を代表する〈七魔導師〉の一人にして、王立魔法院の院長である。
カイラはそろそろと立ち上がった。小一時間もしゃがんでいたせいで、足がすっかり痺れている。
描き終えた陣は、今や、カイラの足元から部屋の隅々まで、大輪の花のように広がっていた。画材は白のチョークしか使っていないにも関わらず、どうかすると紋様のあちこちが色づいて見える。
控え目に言っても、会心の出来栄えだった。
「これ、明日の試験でも同じくらい上手に描けるかな」
思わず、そんなつぶやきが漏れたほど。
「できれば、これで試験を受けたいくらい……なんて」
そんなことができないのはわかっている。
初めての召喚には、必ず教師が立ち会う決まりだ。この部屋にはカイラただ一人。そして、描きかけの陣をほったらかしてそばを離れるわけにはいかない。
カイラは、絡み合う紋様を崩さないように、外周の隙間からえいっと陣の外に出た。糸を引き、中心に刺した釘を回収する。
最後に外周の隙間をチョークで閉じれば、召喚陣は完成する。
だが今は練習だ。
カイラは外周の隙間はそのままに、振り向いて自分の陣に目をやった。
ああ、本当に良く描けてる。明日もこの調子で描けたなら、一発合格も夢ではないかもしれない。
召喚士の未来は、最初の使い魔でほぼ決まる。
高位の魔物、特に人の姿になれる魔族に名を与え、「はじまりの契約」を結べれば、若くして王宮に出仕するのも夢ではない。
同じランクの魔物でも、知能に優れた種族と契約できれば文官の、戦いに優れた種族を従えられれば武官の道が拓ける。
弱い魔物しか呼び出せなければ侮られるし、強い魔物を呼び出せても、制御できなければ傷を負ったり、最悪殺されることもある。
『だからな、ひよっ子ども。陣を引き、異界に臨むときは、せいぜい身の程をわきまえろ。くどいようだが、どう陣を飾り立てようと、おまえらの本性はごまかせん』
(私の姿は、異界からはどんなふうに見えるんだろう)
それは、召喚術を習い始めてから、カイラが何度も繰り返した問いだ。
はじまりの契約を交わす相手は、どんな魔物になるだろう。
できれば、人語がわかる種族がいい。
同年代の半人半馬と、図書館で仲良く勉強する自分。
雪白の一角獣と連れ立って、郊外の森を散歩する自分。
高望みをしてはいけないとわかっていても、空想はわくわくと止まらない。
たとえ言葉は話せなくても、愛らしい外見の魔物はたくさんいる。
羽毛猫。熾火犬。雲羊。
逆に、醜く恐ろしい魔物もたくさん。
瘤虫、腐れ狼、緑泥魚。種々様々な小鬼たち。
死霊や影人といった、形を持たぬ魔物たち。
カイラは慌てて首を振り、縁起でもない考えを追い出した。
召喚陣を前に、恐れや不安は禁物だ。
それは人の暗部を好む魔物たちを引き寄せると言われていた。
カイラは再び、頭の中を楽しいイメージで塗り替える。
輪郭は定かでないながら、明るく暖かな何か。
名前はもう決めてある。
――ヴェリ。
祈るように指を組み、カイラはそっと胸の内で呼びかける。
あなたに早く会いたいよ。
新連載、スタートしました。
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