第四話 魔女さん、こんばんは
「ふふふ、いいスケッチが描けました」
リフティングを終えて一人でシュート練習をこなしていると、ベンチにいた灰宮がスケッチを終えたようだ。
蹴られたことでゴール目掛けて飛び出そうとしているボールをなんとか足で絡め取って地面に押さえつける。
ボールをその場に置いて灰宮の下に小走りで向かう。柔らかなオレンジ色のスケッチブックを見てニコニコしていた灰宮がニコニコしたまま俺にスケッチを見せてきた。
鉛筆で描かれた俺は、灰宮の目から見た俺だ。
丁寧に描かれたボールの放物線の始点に、俺がいる。ノートの小さな隙間に描かれた広い空と果てのないように思える芝のピッチ、その上でボールを追いかけて走ったり、蹴ったり、ドリブルしたりしている、俺がいる。細やかで滑らかでな冷たくて美しい線で縁取られた俺は熱を向こう側にやった激しい動きという言葉がなんだか頭に浮かんでくるようだった。綺麗なアニメ画のような見事なスケッチだった。きっと、こんな絵を何枚も何枚も重ねて動かして現実よりも現実的で理想的な動きをする動画になっていく。描くことの神秘、その一端に触れた気分だった。でも、ここまで思案することのできる頭とは対極に舌は全く回らない。言葉が出てこない。言語野がイカれてしまったように、真っ白なノートのようになんの言葉も見当たらない。
俺は芸術に深い造詣があるわけでも、美しいものに興味があるというわけでもない。なのに、この綺麗な絵にはたまらなく惹かれた。
灰谷に伝えたい感想が頭にはあるのにまったく言葉が出てこない、クラスメイトや家族と話すときと同じはずなのに、違う。
「ごめん灰宮、俺は今とてつもない感情の波に襲われて溺れている。ので、申し訳ないことにこのスケッチへの感情を言葉にして伝えることができない。――――でも、これなら言える。このスケッチはきっと灰宮が熱意を込めて描いたものだ。俺はそのモデルになることができてすごく嬉しいと思う。ありきたりな感想だけどな。」
情けないことに、俺にはこれが精一杯の謝罪で、目一杯の感謝だった。
自分の学の無さが憎い。
けど灰宮はそんな俺の感謝の言葉に頰を緩めて笑う。
喜んでもらえたことに喜ぶ、利他的な優しい笑顔で。
灰宮アイネは優しくて善良な女の子だ。少なくとも俺の知る限り、彼女よりも利他的な性格の女の子はいない。
灰宮アイネ
灰の中から現れた世にも美しい少女。
あの後聞いた話では、インターナショナルスクールの生徒のみならず、かささぎ第一近辺の人間の多くは老若男女問わず、犬猫鳥類に限らず灰宮を遠目で見かけてしまっただけでも彼女に対して崇拝のような感情を抱いているらしく、それに関して灰宮のことを「美の呪い」だなんて悪趣味な呼び名で呼んで畏れている奴等がいることも聞かされた。
灰宮が学校で浮いてしまっているのはその美しさとそれらの噂が原因のようだ。
曰くその「呪い」にかかってしまった連中はそれ以外口にできなくなってしまったかのように彼女の美しさと彼女そのものを讃えるのだと言う。なんだかホラーにありそうな設定で怖いな、と思ったし、そんなのまるで彼女の美しさが感染する呪いのように思ってしまいそうで嫌だなとも感じた。
こうして面と向かっている俺には何もない。それらの話の通りなら、俺はとっくに灰宮を讃えるだけのヤバい奴になってしまっているだろう。
俺が特例なだけ、かもしれないが。
特例なのだとしたら、せめて俺だけでも灰宮とは積極的に関わるようにしよう。
―・―・―・―・―・―
そんな決意をした後の帰宅途中、俺は入り組んだ路地裏に追い込まれていた。つけられていた。
走っていた。今も走っている。
後ろから聞こえてくる足音はつけられていると気づいた時から変わらない一定のリズムを保っている。
腕時計をチラ見する。
かれこれ40分以上は走っている。緩急をつけながら走り続けているとはいえ、こんなにも長く全力疾走を行う俺を緩やかな足取りで追いかけるだなんて相手は中々だ。
後ろを振り向く勇気はない。だがこのままでは体力が底を尽きる。
かといってこのまま家に逃げたら相手に住所を知られそうだ。それは駄目だ。
日が傾いて空もだいぶ暗く染まった頃、
どんどん追い込まれていると感じる。
俺の自宅の最寄りはかなり複雑な地形をしていて、電灯がかなり多い、無駄に多いといってもいい。おまけに明るさの調節を誤ったのか、キャンプでも使わないような光度の光を灯すような電灯ばかりだ。
おかげさまで夜中でも道路に面した家々は灯をつける必要がないくらい明るいし、暗闇の隙間がない。目が痛くなるような明るさだ。
でも今はその明るさのおかげでこの複雑な地形の中で迷わず、壁に行き当たらずに走り続けられる。
――――それでも
(このまま逃げてるだけじゃ、埒が明かねぇ…!)
相手は全く疲れた様子を見せずに俺を追いかけている。
今も足音はリズムを崩さず近づいてくる。
この様子では撒くことは期待できないし、俺の体力切れの方が間違いなく早い。
「――――――」
考える。走り続けながら。
足音からして、これは俺に敵意のある足音ではない。ただ、人間のものかと聞かれたら違う。足の形は間違いなく人間のものだが、その音は人間のものにしては軽すぎる。軽やかすぎる。普通、人間の足跡ならばもう少し重い。
よって考えられるのはこの足音の持ち主は人のようなカタチをしているが人ではない者だ。
(それなら―――)
いよいよもって相手の体力切れは期待できない。人でないものが相手だというのならばそれも仕方がない。
ならば、もういっそ腹を括って相手と対峙するほかない。
それで俺が死ぬことになっても、自分は所詮そこまでの存在だったというだけだ。
意を決して、立ち止まる。深呼吸を二回して、息を整えて後ろを向く。
「――――なんの用ですか」
「あら、もう追いかけっこは終わり?なんだか狩りみたいで楽しかったのだけれど。まぁいいわ―――こんばんは、言村静月くん。私はアハルディケ」
そこにいたのは、女だった。でも、人間とは違う存在。
それとも、と女は続ける。
「こう言った方が分かりやすいかしら?かささぎ第一高校二年C組羽田魅翅実。私は魔女。月の眷属。あなたに忠告をしにきた者です」