好きになります
「初めは、お姉様と同じ様に想われたら、どんなに幸せなんだろうと。ずっと焦がれていました」
人払いはしたが、誰が側で聞いているかも分からないから、その名前は出してはいけない。と、イザベラに釘を刺されたシャーロット。
頬をピンク色に染めながらたどたどしく語り始める姿はとても儚げで守ってあげたくなってしまう。
「だから、彼の側にいられるのなら相手は……。それでもいいとお受けしたのです。シェリール様を好きになろうと本当に思っていました。けれど、同じ敷地内にいると、どうしても目が追ってしまうのです。その姿を。諦めなければと何度も思いました。けれどそれとは裏腹に視線は違う人に向いてしまう。だから、イザベラ様が婚約者として来て下さって……。立場をわきまえねば、と。だから……失礼ながら、かつてシェリール様の婚約者であったイザベラ様に、彼の好きだったところを聞いて、わたしも彼を好きになれたらと」
ぽつり。ぽつりと言葉を紡ぎ、シャーロットは息を吐いた。
ずっと胸の内に抱き続けていた想いをようやく誰かに吐き出す事が出来た彼女は憑き物が取れたような顔をしている。
身体の中にずしん、と重りをつけていた暗くて重い感情はほんの少し軽くなる。
片想いの婚約者相手にこんな事を吐露していいとは思っていない。
むしろ、ずっと心の闇として留めておかなければいけないと思っていた。
「私もアパル様は素敵だと思います。剣捌きも無駄がなくてスマートですし、外交相手に弱みを突かれない様、適度に手札を見せつつ、結果、こちらの条件を通してしまう度胸。とても強いのにそれを過信せず、常に向上する姿勢。女性に対してもとても誠実です。でも」
イザベラは再び城へあがり、アパルの側に立ち、ずっと彼を見つめていた。
流石。と思った。
彼こそ王位を継ぐ人間だと、近くにいるからこそ実感した。
一本筋がスッと通った佇まい。
彼と接した誰もが、アパルに付き従いたいと願う程の圧倒的な能力。
「でも不思議ね」
アパル王太子のいい所はいくらでも言える。
けれどもそれは、彼の隣に立つカロスの存在があったからこそだと思っている。
勿論、自分には勿体ない程の、とても素敵な婚約者。
けれど、イザベラはそれを演じてくれている彼の本心をまだ知らない。
毎日言葉を交わし、城で姿を見掛けるたびに、何か奥底に秘めている感情があると感じていた。
常に同じような貼り付けた笑み。
スキンシップをしながらも、それ以上踏み込んでこようとしない会話。
カロスを失った彼の心を開くのは自分ではないとイザベラは直感的に感じていた。
彼の中の気持ちを消化しなけれないけないのもまた、彼自身しかいないから。
「わたしもまだ彼のことが好きなのよ。わたしの見ている世界を否定することなく一緒に見てくれたあの人のことを」
イザベラ自身、まだシェリールの事を忘れられないでいる。
過去の恋を忘れられない者同士、イザベラとアパルは似た者同士だと思って側にいた。
まさか、シャーロットまでこちら側だったとは思わなかったが。
その相手が誰であるか隠してはいるものの、その正体を察したシャーロットは目を丸くする。
「秘密ね」
イザベラは彼女の背後に、淹れ直しを頼んだお茶とケーキを運んできてくれた侍女たちを認める。
そして悪戯を思いついた子どもの様に微笑みながら、人差し指をひとつ、そっと唇へ運んだ。
***
この日から二人の距離は急速に縮まった。
シャーロットが苦手だと口にしていたお妃教育。
可憐な見た目に反し、身体を動かすのが好きだと話していた彼女は、お淑やかに振る舞う事を苦手にしているらしく、教師に厳しく指導されるのを露骨に嫌がっていた。
そんな彼女に対しイザベラが提案したことは、お茶の時間を使って教師陣を見返せる様、美しい所作を身につけよう、という事だ。
秘密を共有した関係になっても、気が抜けずにいられるかしら、と、イザベラが提示すると、
「イザベラ様と楽しくお話しながら礼儀作法を学べるなんて一石二鳥ですわ」
と、興奮気味に食いつかれ、毎日シャーロットの部屋でお茶を楽しみながら二人の時間を過ごし始めた。
イザベラの毎日にシャーロットとのお茶の時間が組み込まれた。
人と接することの苦手なイザベラも、妹の様に自分についてきて素直に吸収してくれるシャーロットを可愛く感じるようになっていた。
シャーロット本人も、今まで憧れの存在であった姉が突然いなくなり、寂しい思いをしてきたのだろう。
それに加え、姉の婚約者に抱いてしまった恋心が複雑に絡み合い、二人に対し素直になれなかった反動みたいなものがあるらしく、それを初めて吐き出したイザベラに完璧に懐いてしまった。
イザベラに姉妹はいないが、居たらこんな感じで甘えてくれるのかしら、と彼女と過ごす時間を重ねる内に楽しくなっていた。
座学も苦手だと漏らしているシャーロット。その話を聞かされる度に、イザベラはこの二年間、彼女は一体何を学んでいたのかしら、と、逆に不思議に思ってしまう。
もしかしたら、シェリールの婚約がまだそのままなのは、彼女が真剣にお妃教育を受けていないからではないか、と、イザベラは頭を抱える。
イザベラは今でもシャーロットとの関係を深めながら、シェリールへの気持ちを断とうとしている。
シャーロットもまた、互いの気持ちを明かしながらアパルへの気持ちを消化しようとしているので、むしろお妃教育が前進するいい傾向と言えるのかもしれない。
だが、本人曰く、頑張っても覚えられない物は覚えられないらしい。
史実が苦手であれば婚約者であるシェリールかアパルに直接教えを乞う方が得策だと言えるのではないか。
そう考えたイザベラは軽く「シャーロット様は歴史が苦手みたい」とアパルに伝えてみると、「考えてみよう」という返答の後、週に一度、四人で机を囲む時間が作られた。
それは、勉強会とは名ばかりのお茶会になってしまう事もしばしばあったが、イザベラにとっては気持ちに決着をつけるいい時間でもあった。
「シャーロットは、椅子に座る姿勢が自然になったね」
「イザベラ様のお陰ですの」
アパルに言われ嬉しそうに頬を染めるシャーロットはとても可愛い。
恋を応援したくても、互いの立場があるのでそれも出来ず、頑張って気持ちを自分の婚約者に向けていくしかない。
四人で囲む大きな机の上には、歴史書、ペン、紙が広げられ、シャーロットの隣に座るシェリールが彼女に座学を教える。
イザベラの隣にはアパルが座り、静かに本を広げる二人は、教えるというより見守るという位置付けに近い。
時折お茶で喉を潤しながら、目の前で勉強をするシャーロットの邪魔をしないように、大人しくしている。
彼への気持ちを断ち切ろうと決心しているイザベラは、目の前で楽しく勉強をする二人を視界に捉えてしまうので、本の内容に集中出来る筈もない。
シェリールが勉強が苦手な事をアパルに漏らしはしたが、こうして婚約者が教えているならば、自分たちはこの場に不必要ではないか、と、思ってしまう。
むしろ、彼女たちの仲睦まじい姿をイザベラは見ていたくない。
彼女の気持ちがまだ完全にシェリールに向いていない事は知っている。
けれど、婚約者である彼を好きになりたいと思っているのも知っている。
それはイザベラも同じ。
忘れようと思っても忘れられず、心の中にもぞもぞと、吐き出せないままの気持ち悪い感情が燻り続けている。
視線は本に。
聴覚は彼に。
けれど、いつまでも捲られる事のない同じページが、イザベラの意識がどちらに集中しているかを如実に語っている。
「私、少し気分転換してきますね」
目の前で勉強に集中する二人の邪魔をしないよう、アパルにそっと声を掛け椅子から立ち上がると、一人部屋を後にした。
自分の気持ちの区切りは自分でつけるしかない。
シャーロットが先に自分の気持ちを吐露してくれたお陰で、イザベラも素直になれた。
シェリールに対する感情も、ただ聞いてくれる人がいてくれるだけで心が軽くなる。
今なら婚約者と向き合えると本気で思っていた。
二人が仲良く出来ているならあのままで。
シャーロットの気持ちにも決着がつけばいい。
わたしはアパル様を好きになる。
「イザベラ」
「……」
いつまでも続く廊下の模様を見ながら、向かう場所も決まらないまま、ただ足だけを前に運ぶ。
「イザベラ」
呼ぶ声に応えてはいけないと頭が警鐘を鳴らす。
彼が来てしまっては、何の為にあの部屋から去ったのか分からない。
何故追いかけて来たのか。
「イザベラ」
あの頃はもう少し高かった声。
まだ聞きなれない音だけれど、それの主が誰の物であるか分かってしまうのが怖い。
「イザベラ。俺に何回呼ばせるの?」
視界に男物の靴が入り込み、イザベラは彼にぶつかる前に立ち止まった。
「気付かずに申し訳ありませんでした」
俯きながら頭を下げ、彼の気配を避けて先へ進もうと足を横へやる。
と、そのつま先も同じ方へ動く。
「……」
邪魔しないで。
という言葉を飲み込み、イザベラは自分を見下ろす彼の視線を頭で受け止める。
「イザベラ」
腕を掴まれ、逃げ出さない様に留め置かれてしまう。
「離して下さいませ」
「嫌だ」
「誰かが通り掛かったら勘違いされます」
「別に構わない」
「痛いので離して下さい」
淡々と述べられる言葉の内、最後の一言で掴む力が緩む。
「すまない」
謝りつつも手は離してくれないらしい。
「どんな御用ですの?」
イザベラは反抗をやめて、彼の言葉を聞こうとする。
「じゃあ、こっち見てよ。イザベラ」
「今はシャーロット様の勉強を見ている時間ではないのですか?」
彼の言葉は聞かず、瞬時に答える。
「史実は兄貴の方が得意だから」
「まさか。本の虫だったシェリール様が知識量で負ける筈ないじゃないですか」
国王になるべく仕事をしているのは、もちろん第一王子であるアパルであるが、国を背負うべく働いているのはシェリールも同じだ。
むしろ、頭を使う事に長けているのは目の前にいる彼であるとイザベラは知っている。
彼の言葉に思わず食い気味で反応してしまったイザベラは、自分に向けて嬉しそうに笑う彼の顔を認め、再び俯いた。
「やっと俺の方見てくれたのに、何でまた逸らすの?」
先程までの必死な声と違い、少し弾んだ声を出す彼は嬉しそうに言う。
「だって……」
言ってはいけない。
頭で言葉を止めようと声がする。
「ん?」
イザベラの言葉を聞こうと、シェリールが少し屈むのが気配で分かる。
もはや、あの頃の様に無邪気に接していい間柄ではない。
それくらい、彼も知っている筈なのに何故今更距離を詰めようとしてくるのだ。
「何の理由もなく私を遠ざけたのは、シェリール様じゃないですか」
好きだったのに。
婚約していた頃も一言だって「好き」とは言ってくれなかった。
気持ちを伝えてくれなかったとしても、向けてくれる笑顔からそう思ってくれていると信じていたのに。
当時の事が思い出され、悲鳴様な言葉が互いの心を容赦なく突き刺す。
「……」
彼は息を飲んだ。
そうして、何も言えないままゆっくり姿勢を正す。
「私…………ます」
「え?」
聞き取れなかった言葉を聞き返す。
イザベラの言葉に「違う。そうじゃない」と反論したくても彼にはそれを証明する術がない。
「私はアパル様を好きになります」
「……」
俯いた顔がくいっと持ち上がり、シェリールの顔を真っ直ぐに捉え告白する。
瞬時に頭の中が真っ白になったのが分かった。
ぱくぱくと。
言葉を出したくとも、彼女に何をどこまで伝えていいのか分からない。
「だからもう私に構わないで下さい」
イザベラはそれだけ言うとお手本の様に丁寧なカーツィを披露し、シェリールをその場に残し去ってしまった。
***
力が抜けるとかこういうことか。
シェリールは身体を壁にもたれ掛け、背を壁につけたまま、足元から崩れ落ちた。
「シェリール」
遠くから近付いてきた足音が止まり頭上から呼ぶ声がする。
「立て」
もはや彼には言葉に反応する力もない。
「イザベラの声がしたかと思って来てみたら。お前は何をしている」
やや非難するような声にも反応はない。
アパルは、分かりやすく大きくひとつ息を吐き、弟の手を取って立ち上がらせた。
「イザベラは?」
「……」
聞いても答えはない。
「イザベラは?」
「知らない」
ようやく出てきた回答に、アパルは再び呆れた顔で溜息を吐く。
「閉じ込めておけるんじゃなかったのか」
それは非難する声。
二人で交わした約束事を守れぬ弟を諌める言葉。
「確かに提案したのは俺だが、出来ると言ったのはお前も同じだろう」
兄弟二人で交わした約束。
もうあんな想いをしたくないと。
だから、自分の知らぬ場所で幸せになって欲しいと遠ざけた。
自分が笑顔にしてあげたいと願っていたのに、離れざるを得なかった。
心に彼女がいたら、きっと目の前の婚約者を好きにならずに済むだろうと新たな相手を迎えた。
気持ちを大きく育たせず、大切な思い出として彼女をしまっておいた。
一年半。
そうして過ごせたから、兄の提案を受けても心は動かずに済むと思った。
だというのに、その意思は再び彼女が城へ来た日。
兄に腰を抱かれ歩く姿を捉えた瞬間、崩れ去った。
見たら触れたくなる。
言葉を交わしたくなる。
宝箱に厳重に鍵をかけて仕舞っておいた彼女は想い出の姿より一層美しさを増し、目の前に現れた。
兄の隣に立ち、兄に微笑みかける。
それは自分に向けられていたものだったのに。
醜い嫉妬心が彼女の視界に入りたいと動き始める。
好きにならない。
だけど俺の方を見て。
我が儘な心がイザベラにちょっかいをかける。
避けられたら構いたくなって、遠ざかったら振り向かせたくなる。
『私はアパル様を好きになります』
頭に胸に心にずしんと重くのしかかったイザベラの言葉は、シェリールの本心をあぶり出す。
「兄さん」
俺が彼女に「好き」と言われたかった。
俺が彼女を笑顔にしてあげたかった。
俺が彼女に「好き」と言ってあげたかった。
シェリールは拳を握り決意をする。
「呪いを解きに行く」
それは王家に代々秘密裏に伝えられる呪い。
妖精の支配する地を力ずくで手に入れた人間の代償。
その呪いが嘘か誠かは、愛する者を亡くした本人にしか分からない。
かけられてみなければ、未だ続いているとは思い至らぬ呪い。
『お前たちにも 我と同じ苦しみを 与えてやろう
愛する者を失う恐怖を
自らの手で その命を終わらせる苦しみを
輪廻は巡る
永久に』
愛する者を人間に奪われた妖精王からかけられた呪詛。
『私はアパル様を好きになります』
告げられぬ想いを秘めた心に、イザベラから放たれた言葉が鋭く突き刺さる。
痛くて
苦しくて
切なくて
息ができない
こんな想いをしなければいけないのなら、呪いなんて受け入れずに向かってみせる。
好きな人に「好きだ」と言えない苦しさ。
好きな人が自らの意思で自分から離れていこうとするなんて、兄と約束を交わした時には想像も出来なかった。
好きな人の心が自分から離れていく瞬間を。
それを身近で感じ、彼女の婚約者である兄を憎いと思ってしまうなんて。
全ては昔。
妖精王にかけられた呪いの為に、拗れて捻れ曲がってしまった自分たちの今の関係を正す為に。
「妖精王に会いに行く」