精霊王の番
「テーレ。この髪の色……瞳も。なんでこんなに黒く」
息が止まる程に相手の身体を抱き締め合った二人は、名残り惜しそうに離れた。
「貴方の綺麗な芽吹き色は何処にいってしまったの?」
彼女の脳裏に残る彼の姿は光り輝く緑色。
いつも精霊たちが彼の周りを飛び回り、彼の力で命が芽吹く。
なのに今は正反対。
伝えたい事がたくさんあった。
聞きたい事がたくさんあった。
「それに、こんなに近くに来ないとわたしの存在も分からないなんて」
姿形はイザベラなのに、彼女は精霊王からリダと呼ばれ、その口で彼の名をテーレと呼ぶ。
シェリールはずっと同じ姿勢をとり続けながら、間に割って入ることさえ出来ない状況をもどかしく思っていた。
イザベラが背伸びをし、精霊王の顔を両手で包み込んでいる。
恋人に触れる様に接する彼女の姿に、シェリールはかつて自分が自らの瞳に映した少女も、目を潤ませながらそういう表情をしていたと嫉妬していた。
二人はどんな関係だ。
初めて顔を合わせた訳ではないのか。
問いたいことばかりで、頭がパンクしそうになる。
そうして、彼女を覗き込む精霊王の顔が唇に近付いていると気付いた時。
シェリールはようやく据えられていた腰を上げた。
「イザベラ」
自分でさえ、まだその唇に触れてはいないというのに、まだ何の事情も分からぬまま、目の前で彼女を奪われる訳にはいかない。
イザベラから直接、兄上を好きになると面と向かって宣言された時も同じように言葉を失った。だが、その時には兄の気持ちが誰にあるかを知っていたので、いくら二人が婚約していようとその想いが届かない事は分かっていた。
焦りながらもまだ何とかなると思っていた。
けれど、今はそれとは明らかに異なる。
本当に奪われてしまうと警鐘を鳴らす。
「なんだ。まだいたのか」
冷たく放たれた声の主は、自分の身体にイザベラを引き寄せたまま離そうとしない。
「彼女は……俺の」
勢いのまま言葉を繋ごうとして、シェリールは逆に言葉を失ってしまった。
元婚約者。
義姉。
大切な人。
彼女は何だ?
自分にとってのイザベラ。
見下す黒い瞳が続く言葉を待っている。
「リダは元々わたしの恋人だ」
精霊王がシェリールに向けた真っ直ぐな言葉は、自分が言いたかったそれである。
「恋人?」
しかし、その単語に納得のいかないシェリールは同じ言葉を反復した。
「番……と表現した方がいいかな」
テーレと呼ばれた精霊王は淡々と述べる。
「何を。イザベラは兄の婚約者だぞ」
「……」
咄嗟に出た反論が情けないなんて自分自身も分かっていた。
俺の婚約者と言えない所も、自分の気持ちすら告げる事が出来ていないという事実も辛いが、全て事実である。
精霊王相手に嘘をつく訳にはいかない。
「兄の?」
シェリールの言葉を聞いたテーレは小馬鹿にした様に笑う。
「だが、この身体を苦しめているのはお前じゃないのか」
「ッッ」
客観的で抑揚のない声がシェリールの胸を刺す。
「中にいるのがリダで良かったと思え。こいつの力があったから、この器はここまで命を保っていられたのだから」
「どういう事だ」
イザベラと精霊王を交互に見比べ、今起きている事の答えを求める。
シェリールは気付いてはいないが、既に彼に対して謙る事を忘れている。
イザベラの腰に絡んだ自分ではない男の腕。
あの日。
久しぶりに彼女と目を合わせた時も、その隣に立っていたのは自分ではなかった。
悔しくて恨めしいけれど、それは話し合って決めた事。
しかし今はそうではない。
シェリールにすれば、知らない男に横から奪われたと同じなのだ。
「リダとは誰の事……でしょう」
精霊王はイザベラを見てリダと呼ぶ。
彼女が自分の屋敷に帰っていた数年の間に何かあったというのか。
気持ちだけが空回るばかりで、ここへ来てからまだ何の進歩もない。
「リダとはこの器の中にいる魂の名前。人間によって命を落としたわたしの番。やっとわたしの元へ戻ってきてくれた大切な人」
言いながら隣に寄り添う彼女の頭にキスを贈る。
「っっ」
近くにいるというのに、彼女に触れる手を振り払えないシェリールは、一歩踏み出る。
アパルの婚約者として城にいる時には、ここまでジリジリとした感情を抱かずに済んだ。
今では、兄が弟の気持ちを知っているから、それなりの距離を保って接してくれていたのだと理解できる。
社交界では皆がそれを知らないからこそ、イザベラに釣られていく招待客をみているのが歯痒かったが、「次期国王の婚約者」という肩書きが彼女を守ってくれていた。
歯を食いしばり拳を握る。
「待って」
今まで会話の外にいた彼女がようやく口を開いた。
「意地悪しちゃダメ」
精霊王を嗜める口調に、彼が肩をすくめた様に見えた。
「ごめんなさいね」
テーレの腕からするりと抜け出した彼女は、申し訳なさそうに頭を下げ、シェリールの方へ近付きてきた。
彼女はイザベラでなくリダだ。
「貴方は社交界の言葉を守って、一緒に連れてきてくれたというのに」
リダのすぐ後ろからは、不満そうな顔を隠そうともしない精霊王がついてくる。
「わたしが説明します」
いいですね。と、人差し指を精霊王に向ける仕草は無邪気で可愛い。
同じ事を彼も思っていたらしく、お陰で反論の言葉は彼の喉を通り、吐き出される事はなくなった。
「先程彼も言っていたけれど、今のわたしはイザベラではなくリダと言います。彼女が母親のお腹に宿る頃、ちょうどわたしの魂も再び生まれる命を探して彷徨っていました。テーレの側に行ける器を。そうして、わたしはこの身体を借りました。イザベラが精霊の姿を見れていたのはその為です」
「イザベラは今?」
「眠っています。ここは精霊の力がまだ強いですから、わたしの方が優位に働いてくれているみたいです」
にこり、と笑ったリダは何を思っているのか、まだ分からない。
「わたしはずっとこの身体の中で貴方たちの事を見ていました。イザベラは殊の外、意志の強い子みたいで、なかなかわたしが表に出る事が出来ず……この森に来たくても中々機会に恵まれませんでした。だから、ここへ来るまでにこんなに時間が経ってしまいました」
いきなり放り込まれる情報を理解しようとシェリールは話に集中する。
「あの夜。貴方がワインをこの子に飲ませてくれて助かりました。この身体、あの日初めてワインを飲んだのね。アルコールに耐性がないから入れ替わりは簡単でした」
社交界の日の事を言っているのだろう。
「ただ、何度も器を変えて生まれるわたしももう力が消えかかってしまい、ら勝手に身体を動かす事も難しくなり、器の力を借りなければここまで来れませんでした」
「リダ」
今まで黙って聞いていた精霊王が背後からイザベラの身体を抱きすくめ、抱き締められたイザベラは嬉しそうに微笑む。
「もういいだろう」
「……」
「俺は早くお前と二人きりになりたい」
今、こうして話しているのも、笑っているのも、動いているのもリダであってイザベラの意思はないと分かっているのに、その姿でそうしているのを見ると、目を背けたくなる。
「シェリール。……と言ったな」
リダに言われるまま大人しくしていたテーレが交代で口を開く。
「お前、呪いを解きにきた……と」
願いを申し出た時には不機嫌そうな様子だったので、話を聞いていないと思っていた。
唐突に話題を出されたシェリールは姿勢を正す。
「この器を置いていけ」
「……」
精霊王の示す器は、既に彼の腕の中。
「リダを連れてきてくれた礼をしてやろう」
「嫌です」
「は?」
拒絶されるとは思ってもいなかったテーレは思わず聞き返す。
「嫌です。と言いました」
「何故だ」
「彼女はリダではありません。イザベラです。返して下さい」
「何を。器ごと置いていけば願いは叶えると言っているのだぞ。先祖代々お前たちを苦しめた呪いを解いてやろうというのだ」
状況はシェリールにとって圧倒的に不利だった。
イザベラを守ってあげようとも、身体は既に精霊王のそばにいる。奪いに行く事はほぼ不可能。
何より、今イザベラの身体を使っているのはリダである。人間の手によって殺められた彼女がテーレから離れる事はない。
「人の心は移ろうものと言うだろう。今は彼女を想っていても、時間と共に側にいる人間に情が移るとはよく聞く話だ。呪いを解けば次は想う事は許される。失う恐怖を味わわずにすむ」
「それでもイザベラは一人しかいません。彼女を返して下さい」
「呪いを解かねばお前の想いは報われぬぞ」
「それでも」
「お前が彼女の命を奪ってもか」
テオの言葉にシェリールは応酬する言葉を無くす。
自分の側に居てくれたら、例え彼女が手に入らずともいいと思っていた。
けれどそれでは嫌だと欲が顔を出す。
兄の婚約者だというのはただの飾りだという事を知っていたから。イザベラとアパルはいずれ婚姻し、その先で二人が契る事も納得していた。そして自分もシャーロットとそうなると考えていた。
でも目を背けていた本心は、それじゃ嫌だと駄々をこねた。
手に入れたい。
隣で笑って過ごしたい。
好きだと伝えたい。
だから精霊王の棲む森に来たというのに。
呪いを解きに。
そして、呪いが解けた先の未来で自分の隣に立っていてくれるのは、絶対にイザベラがいいと。
願ったからここまで来た。
「イザベラを返して下さい」




