第95話 「我が名は、Mord(モルド)。」
闘技場に喧騒が戻ってくる。
「消滅した?」
ネメシス・ダムドは、楯椅子鉋が消えた空間を睨み、
その不満を隠そうともしない。楯椅子鉋の言葉を借りれば、
あまりにも手応えがなかったから、斃したという気がしないのである。
あの忌々しい豚野郎共が、【テッタイン】とかいう、
魔法薬を飲んで、撤退した時の感覚に似ていた。
「【無機知性体】には、記憶の相互補完機能がある。
どちらかというと、逃がしたという表現が近いかも知れませんな。」
「この第参皇児殿は、早速嫌味か。」
「君の部下の治療は、医務室で行っている。」
「容態は?」
「殴打の傷より、感電による衝撃の方が大きいかも知れませんな。」
「また嫌味か。どうやら久しぶりに模擬戦がしたいようだな?」
「君は手応えがなくて物足りないのだろうが、私は暇ではない。」
「学生達の前で、無様な醜態を晒したくないってか?」
「君には、玖球連合から外交の使者として
来たという、自覚はないのかね?」
闘技場で口論を開始した、貫禄のある凄い筋肉の鎧を纏った、
元・玖球帝と、威厳のある荒脛巾皇国の第参皇児。
「二人とも待ち給え。」
この場の誰一人として、止めることが出来ない筈の
睨み合いに、割って入った者がいた。
「じゃれ合いの前に、成すべき事を成せ。」
ブルクドルフ氏である。
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「私の弟子が随分と世話になっているようであるな。玖球帝殿?」
「元・玖球帝だがな。だが、コイツを世話した覚えはないぞ。」
「どう考えても、社交辞令だろう。君とて、楯椅子鉋に
同様の啖呵を切っていただろうが。」
常井氏は、思わず呆れて指摘する。
「戦闘狂と名高い、元・玖球帝殿が、物足りないという、
その気持ちはよく分かるが、君達年長組がこの闘技場を貸し切りに
していたら、学生達に示しがつかないであろうが。」
ブルクドルフ氏の指摘によって、二人は漸く冷静さを
取り戻した頃、郡山青年と弓削青年の二人が闘技場に降りてきた。
「おお。二人とも壮健で大変結構だ。爵位も侯爵相当まで
昇進したと聞いている。随分と成長したようだな。
だが、それでも【無機知性体】を相手にするのには、
少しばかり不安があるな。そこで、どうだろう。
私の『最後の授業』を受けてみないか?」
「『最後の授業』?」
確か、独逸の占領下になる前日の仏蘭西の
アルザス・ロレーヌ地方を舞台にした小説だったか?ゑ?違う?
「そうだ。これから【無機知性体】を相手にすることに
なるであろう、君達二人には、もう一段階上の舞台に
上がって貰う必要があるようだ。」
どうやら、また物騒な展開に巻き込まれることになりそうだ。
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垂直尾翼の政治結社・【草茅危言】の基地。
その最奥にある地下室にて。
ブルクドルフ氏は、「最後の授業」を始めた。
「君達二人には、まだ私の下の名前は名乗っていなかったね。
別に失念していたわけではないよ。この名前を知っているのは、
現状では、荒脛巾皇国の皇族達だけだ。
まぁ、忌むべき名前なので、あまり広めないでくれ給え。
我が名は、Mord。独逸語で、『殺人』を
意味する単語だ。英語であれば『murder』に相当するな。」
そういえば、最初は、【クネヒト・ループレヒト】とか、
【老魔法王】とか名乗っていたな。確かに、忌名を
名乗りたくない気持ちは理解できる。
「そういえば、最初に君に会ったとき、君は、
私が150歳近く生きていることに関して、訝っていたな。
本来なら、天寿を全うしている筈の年齢であることが
前提条件だが、その状態で【無機知性体】と契約していると、
自身を精霊化することが出来るのだ。大皇が
2600歳以上生きている理由も同様だ。」
「【無機知性体】と契約?」
「基本的には、君達も知っている【陰陽術】を使う。
但し、使うのはその中でも、禁術に指定されている、
【死靈術】だがね。」
そして、師・ブルクドルフの講義が始まった。
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「神話の時代、この【術理の世界】を創造した造物主は、
【玖球】の祖となった、【理外の民】の3柱とともに、
原初の生命として、【有機知性体】と【無機知性体】を創造した。
造物主は、【有機知性体】と【無機知性体】を統合する、
超越者として、【超知性体】と呼ばれている。」
―――これが、この【術理の世界】の創世の神話か。
「炭素で構成される【有機知性体】は、進化を経て、
やがて、有性生殖によって遺伝子を継承するように進化した。
一方、炭素以外、殆どの場合が珪素で構成される
【無機知性体】は、一般的には、【有機知性体】よりも
長寿であり、【思念共有】によって、各々の情報を集合知として、
共有するように進化した。そして、己が生きた証として
継承すべきは、遺伝子ではなく、記憶なのだという結論に達した。
彼らからすれば、性別など、性染色体の組み合わせによって、
定義された、12種類の属性値に過ぎない。」
―――要するに、【有機知性体】にとっては、遺伝子の継承が、
【無機知性体】にとっては、記憶こそが、己が生きた証だと。
「やがて、【無機知性体】は、八百万の神々となった。
長命な彼らは、【神族】とも呼ばれ、大和民族や
【荒脛巾】の民の祖となった。
そして、終末の時、【有機知性体】と【無機知性体】は、
再び統合されて、【超知性体】となる。
それが所謂、『神』だ。」
―――そして、これが、この【術理の世界】の終末論か。
「一神教も無神論も、多神教や汎神論も、量子力学的には、
全く同一の現象の解釈の違いに過ぎない。
神の存在の有無は、信仰の有無。前者が一神教、後者が無神論。
しかし、それらを判定するまでは、状態は収束しない。
この判定前の状態が多神教や汎神論に相当する。」
―――この世界では、宗教という迷信ではなく、
量子力学という、科学による解釈が成されているようだ。
「例えば、【無機知性体】を、人工知能を搭載した機械とすると、
【無機知性体】を各々の個体と見做せば、多神教や汎神論。
個々の情報を比較・検証した上で、集合知と見做した上で、
人が機械に使われている状態が一神教、これを否とし、
人が機械を使う状態を是とするのが、無神論に相当する。」
―――人工知能を搭載した各々の個体を偶像崇拝するか、
それとも、集合知として、文化と捉えるのか。
そして、人工知能によって仕事が奪われると考えるのか、
或いは、人工知能さえも利用して、新たな文明を築くのか。
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以上が、「無機知性体」とは何か、という概論らしい。
「私がこの世界に招聘しなければ、君達は死んでいた。」
「俺は、病室で昏睡状態だったらしいから、まだ分かるけど、
普通に大学生だったコイツまで、死ぬ運命にあると?」
「そうだ。君が病室で昏睡状態だった原因の連中は、
自分達と懇意の仲にある権威にさえ屈しないであろう、
【蝙蝠山卿】を厄介だと感じ、始末しようとしていた。」
「最初に会ったとき、俺の論文が物理学の未解決問題に言及し、
世界に多大なる影響を及ぼす可能性があった、とか言っていたのは?」
「その前に、私の技能について、説明しておこう。
特性と言った方が適切かも知れないが、【予知夢】という
技能で、少し先の未来を演繹的に推測することが可能だ。」
「その【予知夢】という技能で、俺の未来を推測したと?」
「勿論、未来というものは、バタフライ効果のように、
僅かな条件の差で大きく異なってくる不確かなものだ。
この授業の最後に、君はその一端と対峙することになる。
この定められた運命に打ち克つことが出来るように、
今まで、君に力をつけてもらってきたのだ。」
「今なら、その運命を覆せると?」
「いや。残念だが、まだ足りない。そのための最後の仕上げが要る。
その準備を第参皇児殿に、手伝って貰ったから、
二人とも闘技場に行って見てくるといい。それが最初の課題だ。」
二人は、闘技場へと向かう。そこに何が待ち受けているのだろうか。




