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五分間だけ過去に戻ることができるチケット

作者: 亨珈

 僕の人生で、最大のネット通販だった。モノの大きさじゃなくて、金額と、そして勇気という意味で。

 何度も何度も概要欄と注意書きを読んだ。見落としや勘違いがないか、文脈をしっかり理解するように努めた。


 レビュー欄は全てに隈なく目を通したし、サクラじゃないかと疑って、そのアカウントの買い物状況までもチェックした。

 できることは全てやったと思う。

 あとはもう、信用するしかない。この品物が、書いてあるとおりの効果を発すると。


 『五分間だけ過去に戻ることができるチケット』


 その名前のとおりであってくれと、生きてきた三十年の中で、もっとも強く、泣きたいくらいの切実さで願った。




 スマートフォンから発注した翌々日、その品物は届いた。

 てっきり薄っぺらい封筒に入っているものと思っていたら、厳重に厚紙の箱に入り、防水シートに包まれている。

 中には、ロウソクとそれを立てる台。そして、白地に金色の装飾をされた紙に黒々とプリントされたチケットが一枚。

 マッチは送ることができませんので各自ご用意ください、と書いてあったから、準備してある。


 いよいよだ。覚悟ならしているはずなのに、いざ実物を手にすると震えてうまく持てない。

 うっかり折れたり破れたりしないようにと、慎重に斜め掛けの鞄に入れて、僕はアパートを後にした。





 ようやく復活したばかりの電車に揺られて、目的地に向かう。車窓から外を眺めれば、あの日全てが奪われたまま、茶色ばかりの土地が続いている。

 高架からの眺めも変わらない。木々の緑と、その向こうの川の色は少しだけ青い。空ですら初秋なのにどんよりとしている。

 あの日までは、生まれ育った土地をこうしてしみじみと眺めることもなかった。

 ただ、不便だから早く出たいと思っていたのに、父の転勤に母が同行し、残された家を無人にするわけにもいかなくなった。


 寂しくはなかった。

 エリがいたから。


 エリ、エリ……エリ……!


 暑いだろうからとエアコンを付けっぱなしにして、窓も全て施錠して出てしまった。

 雨足が強くなり、避難勧告が出ていた頃には、僕は帰る手段を失っていた。


 翌日になり、行けるところまで車に乗せてもらい、歩いて帰宅した。そして、一階は全て水に浸かり、二階の窓を突き破った流木を目にした瞬間呆然としてしまった。

 そのあと、泥と瓦礫をかき分けながら隅々まで君を探して。

 探して、探して、町をさまよって。


 貼り紙をして、SNSでも写真付きで情報を求めて、わずかでも似ていればその場所まで出向いて確認して。

 でも、君は見つからない。


 怪我をして動けないの?

 僕のこと、忘れちゃったの?

 まだ、土か瓦礫の下にいるの?


 わからない。時間と月日だけが無駄に過ぎていく。


 そんなある日、このチケットを見つけたんだ。

 レビューによると、心から欲している人にしか、その販売サイトは見つけられないらしい。だから悪い評価はないのだと。結果はさておき、チケットの効果は間違いないのだと。



 住んでいたときには滅多に使ったことのない駅で降りて、徒歩でその場所に向かう。

 再建に先立ち、更地になった僕らの家の跡地。

 まだ片づけ途中で放置されているご近所さんもある中、視界に入るのは空っぽの土地ばかり。

 ここが何処だかもわからなくなりそうだ。


 道路は閑散としており、住宅地を縫っていた舗装路は未だ泥まみれ。それを背に、自宅があった場所、玄関前に立ち、空を仰いだ。

 雲らしき形もわからないのに、灰色が重々しく頭上を覆っている。今にも泣き出しそうなその空の下で、僕は祈った。


 この国におわす八百万の神々よ、仏よ、精霊よ、ご先祖さまよ。どうか、僕にエリを見つけさせてくだい。

 一生のお願いです。このあとどんな窮地に立たされても、自力でどうにかしますから!


 しばし瞑目して、深呼吸する。

 よし、と目を開けると、今度はテキパキと準備を始めた。



 まずは風向きを確認して、ロウソク立てを地面に置く。温い風が炎を消さないように、自分の体を盾にしてマッチで火をつけると、そのロウを垂らしてからそこにロウソクを固定した。


 さて、ここからだ。


 しゃがんだまま周囲を窺い、誰にも邪魔されそうにないことを確認。完全に不審者だから、途中で声をかけられたりすると全てがおじゃんになる。


 鞄に入れたままだったケースを出し、丁寧にチケットを取り出す。

 これが燃え尽きてからが勝負だ。ピンセットで端の方を挟むと、風でふわりと揺れた。


 危ない危ない。


 身体の陰で、そっとロウソクにかざしていく。

 あの日の朝、僕が家を出たあとの時刻に戻してくれと願いながら。




 チケットの端から炙るようにロウソクにかざすと、火が点いたところは黒く焦げもせず、まるで雪が溶けるかのようにふんわりと消えていく。

 それに目を奪われ、気付いたときにはピンセットの先には何もなくなっていた。


 ハッと息を呑み、慌てて顔を上げる。

 目の前には、慣れ親しんだ我が家の玄関があった。


 あと五分。いや、もうどれだけかはロスしている。


 ポケットに手を突っ込み、癖のある鍵穴をガチャガチャとドアごと揺らしながら解錠すると、ガラリと開け放って家に飛び込んだ。


「エリ! 何処だ?」


 あの日、家を出るときにはダイニングにいた。でも、僕がいなければ二階の僕の部屋にいることが多い。

 靴を脱ぐのも省略して階段を駆け上がり、少し開いたままのドアをバタンと開ける。

 子供の頃から使っている勉強机の椅子に座ったエリが、大きく目を見開いていた。


「いた……良かった……」


 視界がぼやける。

 よたよたと近寄り抱きしめようと腕を伸ばしかけて、我に返った。

 鞄の中から、カプセルの付いた組み紐を取り出す。ミサンガのように、願いを込めて編み込んだ。

 再び出会えるその日まで、どうか切れないで欲しい。


「ごめんな。お前、首に着けるの嫌いなのにな」


 綺麗な紅茶色の瞳を見つめながら、そっとその華奢な首に装着する。簡単には取れないように、それでいて、締め過ぎないようにと気を配りながら。

 エリは不思議と抵抗しなかった。黙って僕にされるがままを受け入れ、それから二度ゆっくりと瞬きをした。

 僕もエリを見つめたまま、ゆっくりと二度瞬きする。


「大好きだよ」


 こつんと、額を合わせた。

 彼女の首に回した手の感触を忘れまい。額から伝わる熱を、忘れまい。

 それから鼻をすり寄せたとき、手のひらから全てが消え、僕は土の上に寝転んでいた。



 【使用上の注意: 当チケットは、過去の五分間にのみ戻ることができますが、生死を変えることはできません。また、歴史を改変するようなもの(例えばその時代に存在しないもの)を持ち込むことはできません】


 ほかにもいくつか注意事項はあったものの、僕と関係あるのはこの項目だけだった。

 あのカプセルの中には、GPSが入っている。勿論当時既に販売されていた物を選んだ。


 土埃を払いながら立ち上がり、スマホアプリを立ち上げる。

 はたして、あの濁流にもめげることなく作動し続けた赤い点滅が目に映り、僕は思わず「よっしゃあ!」と拳を握り締めていた。



 地図をじっくりと眺めて、そのまま駆け出してしまいそうなほどはやる気持ちを抑える。この町内ではなく、住んでいるアパートとも全く別方向だ。最適なルートと手段を調べないと。

 どうやら住宅地のようだ。

 少し遠いけれど、一旦帰宅して自転車で向かうことにした。




 幅二メートルほどしかないアスファルトの道の脇を、同じくらいの幅の用水路が流れている。その両脇に田んぼと民家が点在するのを眺めながら進んでいくと、住宅地の中に入っていた。

 まわりの家よりも比較的古い平屋と赤い点滅が重なっている。下半分が磨りガラスになっている懐かしいデザインの掃き出し窓から中が見えないかと窺う。

 錆のある黒いフェンスは腰より低く、その向こうには少しだけ花壇がある。あいにく花が咲いているものもなく、疎い僕が葉っぱだけで種類が判別できるはずもない。


 可能性として、考えていなかったわけじゃない。

 もしかしたら、誰かに助けられているのじゃないかと。そうあってくれたらと願ったのは確かだ。

 だけど、こうしていざエリと再会できるかもという段階になると、どうして届け出てくれなかったのかと恨みがましい気にもなってくる。


 いや、まだ分からないぞ。もしかしたら、ミサンガが外れてそれだけここにあるのかもしれない。子どもとか、ともかく誰かが拾って持っているだけかも。

 金目のものじゃないから、落とし物として届けるほどじゃないと思われたのかも。


 家と家が密集していて、間には小道などがない。こちらは裏のようだから、道が繋がっているところまで行き反対側に回らないと玄関には辿り着けないようだ。


「エリ」


 分かっていても、どうにかしてエリの存在がはっきりしないものかと声がこぼれてしまう。


「エリ?」


 窓は閉まっているけど、ペアガラスじゃないから、中にも声は届くはず。


「――エリっ」


 いつの間にかフェンスに手を置いて、大きな声を出してしまっていた。

 これじゃ完全に不審者だ。客観的に自分を判断する意識もあるのに、玄関から訪問すべきだと理性は訴えているのに、足が動かない、口は勝手に動く。


「エリ! いたら答えて!」


 その瞬間、磨りガラスの向こうで白い影が動いた。

 少しずつガラスに近付いてくる白い塊は、カクンカクンとたどたどしい動きをしている。それでもついにガラスにペタリとくっついたそのシルエットは、白の中に少しだけ茶色のラインが入っていて。

 ああ、エリに間違いないと確信した。



 その後、エリの後を追って窓辺にやってきた年配の女性に話を伺うことができた。

 エリは、あの日から一週間ほど経ったある日、婦人の知人が所有する農機具の倉庫で発見されたそうだ。

 左の前足と尻尾を骨折しており、尻尾の方は断尾するしかない状態だった。体長ほどもあるすんなりとした尻尾は、もう根元の辺りで少しこんもりしているだけとなってしまった。それはそれで可愛いけど、バランスは取りにくいだろうなと思う。

 前足はなんとか手術してボルトで繋いでいるが、ジャンプできるほど回復するかどうかは判らないという。

 縁側で正座して話す婦人の膝の上で、エリは目を細めて喉を鳴らしている。


 婦人はひとり暮らしで、車にも自転車にも乗らない生活をしている。それでも、エリ(チーちゃんと呼んでいるが)を見つけてすぐに動物病院に連れて行って、安くはない手術費を払って助けてくれた。

 感謝しかない。

 エリもそれを分かっているのか、僕に再会の挨拶として頭を擦り付けたあとは、ずっと婦人に寄り添っている。


 僕は、あの日のことをポツポツと話しながらエリの全身を撫で、それから室内を見回した。

 布団の掛かっていないコタツ。ご主人らしき遺影のある仏壇には、果物と和菓子が供えてある。その和菓子から一つ饅頭を勧められて、緑茶と一緒にいただいた。


 少し腰は曲がっているけれど、杖なしで買い物に行くという。息子はいるけれど、独身だから孫はいないと。

 それから、女学校で薙刀を習った話。ピアノの話。今はご近所から苦情がくるので弾けないと軽く流していたけれど、残念さが滲む口調。


 気付けば、エリも婦人も茜色に染まっていた。

 窓から入ってきたアキアカネを目で追い、それが住宅の向こうにすうっと隠れていく太陽に向かっていくときに僕はギュッと目を閉じた。


「そう、あなたエリっていう名前なのね。素敵。ご主人が迎えに来てくれてよかったわねぇ……」


 僕が手を引いてから、婦人がエリを撫でながら話しかけている。

 目を開けると、エリと視線が絡んだ。


 エリは、もう決めてるんだな――


 抱いてケージに入れてしまえば、エリは大人しく帰るんだろうと思った。

 でも、それはエリの意思じゃない……。


 僕も、腹を括るよ。

 だって、僕はいつでもここに来ることができる。ひとりで留守番するのも嫌いじゃないだろうけど、ここで一日二人で過ごす方がどんなにか楽しいだろう。


 あのチケットがなければ、僕がここにくることはなかった。生死が左右されることはなくても、本来のエリはここにいるのが正常なんだ。

 これは、別れじゃない。

 エリは生きていた。それだけ判ればいいと、最初に決めていたじゃないか。


 エリを見つめたまま、ゆっくりと二度瞬きをする。エリも瞬きをして、耳を僕に向けた。


 さよなら、エリ。

 またね、エリ。


 僕の心臓は、雑巾みたいにぎゅっと絞られている心地だったけれど。

 視線を上げて、婦人に向けて口を開く。


「あの、もしよろしければ――」



 家路についたとき、僕はやっぱり一人のままだったけれど。

 あのチケットを買って良かったと、心から思った。





     了



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