【第二球】2
【2】
四月十八日、水曜日の午後――。
朝のHRの話し合いで日光を反射する頭皮が問題視され、帽子を被ることになった山寺太陽は、屋上にて水木と中島からとある事情を聞かされた。
「――ということよ。だから、中島君にコーチを任せることにしたの」
聞き終わると、拳をわなわなと震わせて帽子を叩き捨てた。
「俺は間違っていなかったァーっ!」
負けまいと、北風ユズも生徒手帳を叩きつける。
「やっぱ、タコクルのタコじゃなかったァーっ!」
昼休みの屋上には静けさを好む生徒が多々おり、冷ややかな視線が集まる。
おおよそ、山寺の太陽光反射システムのせいだろうが。
中島が小声で言う。「もうちょい、ボリューム下げようか」
「無理!」と、二人は顔近づける。「中ジマ、うちの部に入ってくれよぉ。このままだと夏も一回戦コールド負けだよぉ。キャプテンがまた泣いちゃうよ。『悪いな、三年が不甲斐なくて』って、俺らに土下座すんだよぉ……」
青羽高校野球部は春季大会一回戦で敗退した。五回コールド、十七対〇で。
「それこそ無理だ。俺はボンビーでバイトしなきゃ昼飯さえ食えない。監督を引き受けたのも、牛丼を食わせてもらうためなんだから」
「――んだよ、ケチっ!」「人でなしっ!」
二人には四十万大輔とは伝えず、ウッシーズの選手同様、シニアまで野球をやっていたが、家庭が貧乏で野球を辞めた可哀想な少年と説明している。
「俺だって、やれるならやったよ」
ボソッと吐き捨てた言葉を遮るよう、水木が話を進める。
「それで、今日もタイヨーにノックしてほしいんだけど、やってくれる?」
「お安いご用よ! ――って、中ジマがノックやればよくね?」
「そうだよ、監督さんならノックができないとダメだよ」
「なにそれ、私への皮肉かしら?」
「違うよ。ハナミズはおっぱいが邪魔なだけだもんね♪」
女の、巨乳族と貧乳族のプライドがぶつかった。
時空が歪み始めるも、山寺は慣れっ子なのか、柵に寄りかかって、
「で、その紙は?」と中島が持つクリアファイルを指差す。
中身を隠すよう、彼は切り出した。
「頼みがあるんだ。ウッシーズが優勝するために」
「優勝? 本気で言ってんのか?」山寺は鼻で笑った。「わりーが、あのチームは選手がけっこう辞めて、試合するのがやっとだぞ」
「でも、優勝しないと統合して消滅なんだろ?」
「まぁ……そうだけど」彼の口振りは重い。「時間もねぇし、頼みって?」
「外野ノックはできるか? 内外野でノックをわけたくて」
「ああ、な~る! ところで中ジマはショートだったん?」
「いや……ああ、テキトーにショートやらセンターやら」
「へー、足速いもんな。――了解! ウッシーズをよろしく頼むわ。大会が最後なら天国のおじさんも喜ぶと思うし。じゃ、クラスに戻っか!」
ケンカする猫二匹を連れて、教室に戻る彼の言葉は、お世辞にもチームを褒めてはいなかった。どこか冷たい春風に似て、中島の肌に触れた。反射的に空を見上げた。
飛行機雲が青空を切り裂く。二つに分かれた空は、彼を追いかけさせた。
「1,2,3,4」「5,6,7,8……」
水曜日は午後三時前には下校できる。
小学校は高校よりも早く、四人が荒川河川敷に着くころには白赤ユニフォームに着替えた子供たちが準備体操をしていた。
「ほら、私がいない間でもやってる! どっかの野球部とは大違いね」
「お、俺らもアップはちゃんとやるぞ、コノヤローッ!」
「そ、そうだぞ。このペチャパーッ!」
「誰がダブルAカップじゃ、ゴラァッ!」
「おいおい、ここで揉めるなって……」
水木華の弟、晴太が坂を下る彼らに気付き、選手たちを集めて整列させた。
「山寺コーチ、今日もお願いします」「おなしゃーす!」
「うしっ! 今日も鬼ノックをお見舞いすっぞ!」
「じゃあ、ねーちゃん。まずはランニングとダッシュでいいんだよね?」
晴太がメニューを確認すると、華は人差し指を揺らす。
「チチチ。今日は、この中島コーチの指示に従ってもらうわ」
中島はメガネをかちゃりと直し、クリアファイルのメニューを確認する。
「えっ? この人……の?」と、選手たちがざわついた。
昨日、中島は練習を観るだけで指導はしなかった。その態度を彼らは疑問視しており、彼を野球帽のおっさんの仲間と見ている。
「ランニングとダッシュの代わりに、今日は鬼ごっこをやろう♪」
そんなイメージを払拭すべく、中島は声を弾ませた。彼なりの精一杯の笑顔で、歌のお兄さんを真似てみたのだ。だが――、
「え~、鬼ごっこぉ?」こいつアホなの、選手も三人もそんな顔だ。
すぐにお兄さんモードを止め、淡々と説明する。
「範囲はダイヤモンド内。鬼は二人制、タッチで交代。最初の鬼は俺とハナミズで。一度も捕まらなかったら、監督がコーラをおごってくれるぞ」
「ちょ、ハナミズって――てか、聞いてないし!」
「コーラは俺のもんだ!」とばかりに、選手たちは元気よく内野に散る。
そして、山寺と北風も参加し、十分間みっちりと遊んだ。
途中、巨乳と貧乳が再び争いを始めたおかげで選手二人が生き延びた。
「ハァ、ハァ、ハァ……次は、絶対に、捕獲してやるっ!」
「おいおい、キャラ変わってんぞ。――次はキャッチボール!」
体力を使い果たした高校生三人がベンチで休む中、選手たちは笑顔のままスパイクに履き替え、グローブを手にし、中島の指導を仰いだ。
「キャッチボールは雑にやっちゃダメ! 『投げる・捕る』が雑だと、必ずエラーにつながる。4シームの握りで、ちゃんと足上げて、『1,2,3』のタイミングで相手の胸に投げる。握り方と捕り方は――」
懇切丁寧に教える彼を眺めながら、山寺が言った。
「あ~、俺も適当に投げてたわ。あーやるんだな」
「じゃあ、教わってくれば?」と、水木が返す。
「いや~、マジで足がパンパン。鬼ごっこ、きちぃ~!」
制汗スプレーを、彼の頭にかけるユズがいう。
「でも、鬼ごっこは効率的だね。ダッシュや細かい動きも多くてアップにいいもん。それに、みんな楽しそうだったし」
「あの子曰く、リトル時代の練習だって。同じアップだと飽きるから、外の遊びを取り入れていたんだって」
「じゃあ、うちの部もいれっか。何がいいかな……かくれんぼ、どう?」
「ちょ、グラウンドのどこに隠れるのよ」
アホの提案に呆れ果てる。
「でもよ、ハナミズ」山寺がぼんやり尋ねた。「あいつって、どこのシニアでどこ校から転学したんだ? 白っちに訊いても、『個人情報保護の観点より、絶対に教えることはできん!』って言うんだぜ。ケチだよな」
「さぁ? 私も知らないわ。逆に知る必要ってあるの?」
「知る必要は……ないか。家が貧乏で、バイト頑張ってもんな。それで、貧乏くじで弱小チームの監督か。いい奴だな……あれ、前が見えない? なにかが目から溢れてくる! ――ちょっと、俺も手伝ってくるわ! 中ジマコーチ、俺にやれることってありますかァ!」
「私も、私もサボりながら手伝いますっ!」
やっぱ、気になるわよね……。
かすかにする頭痛を気にしないよう、水木も二人の背中を追った。
「――手伝うこと? じゃあ、トスのボールカバー頼むわ」
「えー、トスなんてやんの? フリーで打たせばいいじゃん」
ユズが口を出すと、中島は眉をひそめた。
「フリーで打たせるよりも、まずは守備の基本ができなきゃダメだろ」
「え? トスって打撃練習でしょ?」
「いいや、打撃も守備も投球も全部だよ。山寺、ちょっと投げてくれ」
中島はバットを軽く構え、投げられた山なりのボールを、緩急自在に、左右自在に、ゴロとライナーで打ち返す。まるでボールを手で投げるような、いとも簡単にこなす光景に、選手の目が輝いていく。
中島はボールの上下内外側を、バッドの芯に合わせたり、わざと外したりと打ち返しているが、これがなかなか難しいもので、曲芸師のような業に、猿のよう身軽に動いていた山寺がノックアウト寸前だ。
「――マジ勘弁っす、中ジマ先輩……」
鬼ごっこの疲れもあって、完全に息が上がったのだった。
「だらしねぇな」と、涼しい顔の中島が言う。「トスでバッターはどんな球でも絶対に当てること。できない子もいると思うけど、まずはバントの構えから正面に打ち返すこと。で、ピッチャーは――」
山寺と攻守交代して、数球見本を示す。
同じ制服姿とはいえ、捕球から投球までの動きは段違いにスムーズだ。
「こんな感じで、キャッチボールと同じように投げて、捕球姿勢・送球までのステップ・ボールの握り替えを意識すること。で、三人目はキャッチャーの位置で二人をチェックして。あとはやってみよう!」
はい、意気揚々に選手たちは投手、打者、捕手とわかれていく。
そもそも水木が監督になる前、トスバッティング(ペッパー)は行われていたものの、相談を受けた野球部の二人が、
『フリーの方が楽しい』という理由で廃止した。
地味な練習だが、守備が雑になる選手に反復練習は効果的だった。
特に、弱い打球を処理する動作は、素早く打球に合わせて捕球し、ボールを正しく握って、また投げる。ムダな動きが多いと疲れやすいのだ。
「あ! しまった!」
ときには強い打球もあり、後ろに逸れることもある。
「油断していると取れないぞ! ――山寺、また行ったぞー」
「今日はオフなのにィ!」
と、球拾いで彼のシャツは汗でびしょびしょだ。
これを交代制で二〇分続け、小休憩を挟み、フリーバッティングに移った。
いつの間にか、Tシャツ姿の中島は選手たちを集めた。
「試合形式にしよう。一人三打席。俺が投げて、みんなは交代で打者とポジションを変える。打ったら全力で一塁まで走る。ヒットを打ったら山寺がランナーをするから、一死一塁のケースで再開……まずはやってみようか」
子供たちにはイマイチ伝わらなかったので、早速開始する。
山寺から大人用グローブを借り、捕手の晴太を相手に軽く肩をならす。
バシィ!
「ナイボッ! (おぉ、なおたんみたいなマサカリ!)」
パシ。返球を受け、マウンドの中島は軽く笑った。
「また野球やってんだな、俺……」
数か月前、絶対にやらないと決めた。なのに、グローブをはめている。
数ヶ月前の自分が囁く。
『お前に野球をやる資格があるの? あんな騒動を起したのに?』
は~、ふぅ~……。とたんに呼吸が荒くなる。でも――、
「さー、しまってこーっ!」
少年の青いミットを見ると、悪魔の囁きは小さくなっていた。
これって効果あるんだな。捕手の声がグラウンドに響くと、山びこのように彼の背中へとカラフルな声が届いた。そして、おおきく振りかぶった。