【第二球 中島、しまっていこー!】1
【1】
翌日の昼休み、担任は潔く生徒に頭を下げた。
「中島、ごめんっ! マジでごめんっ!」
狭い応接間で三〇を超えた大人が恥を捨てて頭頂部を見せる。
白髪が目立ち始める頭皮に、十七歳の少年はため息交じりに改めて訊いた。
「じゃあ、先生があいつに正体をバラしたんですね?」
「うん。俺が言った」もう開き直ったようだ。
怒る気力もなくなり、「俺の件はトップシークレットじゃないんですか? 許可もなく勝手に言って……信じていたのに……」
事の発端は、自分の正体、殺人スライディング騒動を起こした四十万大輔だと、どうして水木華が知っているのかと、中島が白川に問いただしたことから始まる。そして、犯人はすんなり自供した。
失望感を目で表すと、彼女さながら、腕を組んでふくれ面になる。
「だって、水木も『悪用しない』って言ったもーん!」
「もーん、じゃないし。プライバシー侵害ですよ。島流しですよ」
「お前にはわからないんだよ。水木を敵にしたらどうなるか。俺は一年のときのあいつの担任だったから、その怖さをよ~く知っているんだ」
詳しく聞いてくれ、そんな圧をひしひしと感じ、
「……何があったんです?」と嫌々尋ねた。
待っていました、そんな意気揚々とした面で、
「水木はな、ディベーターなんだ」と答える。
「ディベーターって、ディベートする人ですよね」
「そ! 中学からディベート部で、去年のディベート甲子園では、名だたる名門私立校のエリートたちをぶっ飛ばして個人三位だ!」
「へー……」すごいとは思いつつ、「で、バラしたことと何の関係が?」
「つまりは、一度追及し出したら、とても面倒な奴だ!」
教師がそれ言うか? 中島は首を傾げるも聞き続ける。
「例えば、俺は現代社会を教えているだろ。授業で『消費税』を議論させたらどうなると思う? 賛成派の男子が泣くぜ! あの女、鬼すぎて手加減なしに男のプライドをズタズタにするんだぜ! マジでこえーよ!」
「先生も泣いたんですね」
「そうだよ、泣いたよ! 男の子は泣いちゃダメなんですか?!」
どちらかと言えばこいつも面倒くさい。
「いや、泣いていいですけど……」
「俺だって隠そうとした。でもな、アホと違って水木は頭よく、緩急自在に訊いてくるんだ。バイト先を聞き出し、一人暮らしの理由を探ってくる。それが刑事みたいでよぉ……俺ぁ、どうしたらよかったんですか、先生っ!」
「知るか! 先生は先生でしょうが」
「先生だって、ちっぽけな人間なんだぁ。ただのクソガキだぁ」
「ただの駄々っ子じゃないですか。――でも、住所を教えたのは許せません。あいつ、俺の住んでいる団地まで来たんですよ」
駄々っ子が泣き止む。「住所? 住所は言ってないぞ」
だが、生徒は再び失望の眼差しを向けるので、また対抗処置だ。
「先生だって子供だぁ! モンペがウザいんだぁ! もぉ、鬼教頭にローリングヤダヤダをお見舞いしてやるぅ!」
「勝手にやればいいじゃないですか」
「アホ! 島流し確定だわ。あのな、最近の親は――」
その後、中島は愚痴をこぼすおじさんを嫌々ながらなだめ続けた。どうやら、バイト先でマスターしたのはたこ焼きクルクルだけではなかったようだ。
キーンコーン、カーンコーン♪
「待てー、中ジマ!」「今日こそ練習に連れてくぞー、グレメガネ!」
チャイムが鳴り、中島はアホ二人から逃げるよう教室を飛び出た。
しかし、廊下にはガチなストーカーが彼を待っていた。
「へ~、やる気あるのは感心ね」
声の主は水木華だ。待ちくたびれたのか、壁に寄りかかり、猫が尻尾を舐めるように黄髪の毛先をクルクルといじっていた。
「今度はお前かよ」
「『今度は』ってどういう――」
「説明している暇はない。俺は今すぐ――」
どん! くるくるくる、どどん!
強い衝撃が中島を襲ったのだ。背後から強烈なタックルを仕掛けられ、あたり場所が悪く、欠けたタイルに躓き、三回転して壁に激突してしまった。
唐突なアクロバット芸に、水木はきょとん顔で安否をうかがう。
「ちょ、大丈夫?」
「――あ、ハナミズじゃん!」
タックルの犯人、北風ユズが水木に気付いた。
「よく仕留めたぞ、ユズ軍曹! ――って、ハナミズじゃん」
教室から、また面倒な奴が出てくる。山寺太陽だ。
「ハナミズ言うな、アホにハゲ!」
怒り鼻でとげとげしく返す。水木はこのあだ名が嫌いなのだ。
挨拶をしたつもりの二人は、幼馴染のツンツンに怒り心頭だ。
「なんだとォ! 俺は坊主の究極進化形、HGだ、バカヤローッ!」
「そうだ、アホと言う奴がアホなんだぞ、コノヤローッ!」
「あっ、そう! だったら、もうテスト対策してあげないから」
その一言は、コールドスプレーを吹きかけるよう首筋をひんやりさせた。
「いやぁ、それとこれとは違うじゃないっすか、ねぇ。ユズさん」
「そ、そーですよ! テストは『みんなで仲良く受かろう、ハッピーテスト♪』じゃないっすか。ねぇ、タイヨーさん」
「だよな! テストは全員合格しなきゃ意味ないんだよな!」
「そーです! 一人も犠牲者を出してはいけないのですよ!」
「いつから、テストがチームスポーツになったのよ。ま、私はアホ二人がいなくても余裕で高得点取れますので、二人そろって赤点どーぞ!」
下手に出ても高飛車な態度の幼馴染に、ユズは禁断の一言を口にする。
「特待生クラスだからって、偉そうに! だから、ペチャパーなんだよ!」
「ぺ、ペチャパーですって……」
ペチャパー……それは、乙女の努力を踏みにじる、悪魔の言葉だ。
「私だって……ワタシだって、努力してるんだから!」
肩を落した水木は、自分の小さな胸を押さえ、虚ろな目で二人に語る。
「中学校から寝る前はもちろん、お風呂でもマッサージをしているのに、あんだけバストアップ動画を漁ったのに、効果がない……。食事も気遣って、お母さんに内緒でサプリも試した。初詣でも神様にお願いした。ケチケチせず、お賽銭は千円よ。五年間もよ! でも、ぜんっぜん、大きくならない! ねぇ、どうしてなの! どうして、こんなに努力しているのに私の胸は――」
心に訴えるものがあったのか、演説を聞いた女子たちが涙を流している。
うん、わかる、わかるよ、と優しく頷いている子もいる。
水木は同じ悩みを抱えた彼女たちを代弁するかのよう、ユズに問う。
「ユズはどうしてそんなに大きく育ったの? やっぱり、秘訣があるんでしょ? お願いだから、教えてよ……」
固唾を呑み込む音が場を支配した。そして、ユズは胸を張る。
「ま、才能じゃね?」
ブチブチブチ、水木の中で何かが切れた。
どや顔で言い放ったユズの背後に回ると、怒るまま大きな胸を鷲掴んだ。
「ねぇ、『才能』ってなに? 胸が大きくなるには才能が必要ってこと? どうすればその才能ってやらが身につくのかしら? ねぇ、北風ユズさん」
「フン。私の胸を揉んだところで、ハナミズはペチャパーだ! なぜなら、貴様には胸を大きくする才能がないのだ!」
「おのれ……覚悟しろ!」
水木は鬼となった。女子の、神より与えられし秘儀を目の当たりにし、クラスの男子たちは涙をホロホロこぼしながら拳を床に叩きつける。
だが、一人の男子は違った。「お前ら……俺を忘れんなよ……」
復活した中島大輔は腰の痛みに耐えながら、目的地に向かっていた。
話題は貧乳族と巨乳族の戦いについてだ。「さすがにやりすぎじゃないか? 北風が『穢されたあああ』って、泣いてたぞ」
「大丈夫。ユズはドMよ。私たちは小学校から揉み・揉まれる関係なの」
「ああ、だからハナミズはペチャ――」ゴツン!
「誰がダブルAカップじゃ! シバくぞ、ゴラァ!」
「イってぇよ! バッドで殴んなよ!」
放課後、二人は荒川河川敷に来ていた。
水木は押していた自転車を停め、キャッチボール中だった少年少女を呼ぶ。
「さー、監督が来たわよ! 集まりなさい!」
整列した選手たちはざわついていた。監督の隣にいる制服男子が噂の彼氏だと勘違いしているようだった。
水木はその噂の主に怒りを覚えながら、大輔を紹介した。
「いい、よく聞いて! 彼は同級生の中島大輔君。残念ながら磯野君の友達ではないけれど、小中と野球をやってきて腕はたしかよ。今日から練習を見てくれるから、大会優勝を目指して今日もガッツリみっちり練習するわよ!」
監督の号令に、キャッチャーミットの子が声を張る。
「はい! みんな、気を付け、礼! よろしくお願いしますっ!」
はつらつとした少年たちに、大輔は「お願い、します」軽く会釈した。
表向きには、彼はコーチとしてチームに関わる。これは、監督変更は保護者の同意と地区連盟への手続きが必要なので、ヘッドコーチのような立場でチームを指揮する方が効率的と華が判断したのだ。
「――じゃあ、早速だけど、何から始めればいいかしら?」
「ちょい」中島は監督を呼び、「俺が指示するの?」と、こそこそ訊く。
水木は呆れた様子で、「当たり前じゃない。真の監督なんだから」
「いやいや、メニューなんて考えていないんだけど」
「ええ?! ――ったく、しょうがないわねぇ」
水木は選手に告げる。「今日は、いつもの練習を見たいとのことです。明日からの《必勝メニュー》を考えるために!」
選手たちは納得したようで、「じゃあ、キャッチからフリーで!」
と、自ずとキャッチボールを再開させた。
小刻みよくボールが行き来する中で、中島は尋ねた。
「いつもは何やってんだ?」
仁王立ちで目を光らせる監督が答える。「アップからのキャッチボールからのフリーバッティングね。あと、最後に全員でベースランニングして終了」
「え、それだけ? ノックは?」
「やらないわ。私、ノックできないもん」
マジかよ。開いた口が塞がらない中島に、「でも、あんたのクラスに山寺っているでしょ。あいつに頼んでノックは毎週水曜にやっているの」
「あー、野球部だもんな。――友達なのか?」
「そ! 友達というか、二人は幼馴染ね。ウッシーズのOBOGでもあるし」
「ということは、ハナミズも?」
「一応ね。下手過ぎてすぐ辞めたけど。あ、選手紹介しないとダメね!」
水木が手前の、背番号2の少年を指差す。
「あれが我が弟の水木晴太、六年生よ。ウッシーズの頼れるキャプテンで四番キャッチャー。チームの大黒柱ね」
キャッチボールの相手は背番号1の細めのメガネ少年だ。
「彼は同じ六年生の五木剛君、『つよぽん』よ。今年の三月から入った子で、うちのニューエースね。ちょい口が悪いのよねえ」
「ああ、この前の試合で打たれていた子か。他にピッチャーは?」
「わかんないわ。ポジションは希望制だから」
さすがテキトー監督だな、と口には出さない。報復が怖いのだ。
隣組は背番号6の長身と4の小柄な子のコンビで、「6番は長野勇気君。愛称は『ちょーの』で、風紀員的な真面目な子。――4番は『はらっち』の原田竜馬君。頭の回転が速い子で、気づいたことがあれば教えてくれるのよ」
ピュ~! 「あちゃ~! あの子、よく暴投するのよねえ」
背番号9の子が暴投し、8の華奢な子が急いでボールを追いかける。
「8番の子は杉崎望君、『すーちゃん』。9番のメタボ君は黄金堂大和君で、『ワカメ王子』ってあだ名ね」
「『ワカメ王子』ってどんなあだ名だよ」
「彼は天パでお坊っちゃんなの。おまけに鼻につく性格で」
「ひどい言いようだな。監督ならフォロー大事だぞ」
「本人はけっこうお気に入りよ。『王子』って響きが好きみたいで」
最期に奥の三人組を指差し、
「5番の高橋君は虎を愛すると書いて虎愛斗。『タイガー』があだ名ね。チーム一の俊足で、元気いっぱいなムードメーカーね」
「もしかして、親御さんが猛虎魂?」
「ご明察♪ ――で、3番の巨漢君は志賀心平君、愛称は『ぺーさん』。見た目は力士だけど、シュアなバッティングが持ち味の癒し系一塁手ね。で、7番の子は青羽の天使こと――急にフリーズしちゃって、どうしたのよ?」
中島の目に映るのは、荒れた芝生の上にポツンと置かれた光り輝くダイヤモンドの原石、光に包まれた純白のユニフォームが似合う、絶世の美少女――。
彼は恐る恐る尋ねた。「彼女の名は?」
「彼女? ああ、『姫ちゃん』よ。あんたの大好きな舞さんの娘さんよ」
「む、娘さん?!」そのとき、事件が起きた。
「舞さんはシングルマザーよ。姫ちゃんって絵に描いた美少女でしょ。一人で遊ばせるよりもチームに入れた方が安心だからって――」
水木の言葉など届かず、心臓に刺さった矢を握りしめ、たとえ手が血だらけになろうとも、新たな決意に恋の炎を滾らせていた。
舞さんに子供だと……?
いやいや、あんな美人だし、若気の至りでなんかあったに違いない。
たとえバツイチでも、子供が一人や二人いても、養えばいいんだッ!
「――って、まさかあんた、ロリコンなの?!」
水木は危険を察知し、持っていたバットを振り回す。
「ち、違うから! 俺は優しいお姉さん系が好きだから! 甘え・甘えられる関係が理想だから! イチゴであ~んが夢なんだよ!」
「そんなん知るかっ! ――ほら、フリーバッティングよ。ちゃんと監督らしく指導して。あ、姫ちゃんには近づかないで」
懸命に弁明したが、残念ながらロリコン疑惑は払しょくされなかった。
それでも傍らのベンチに座り、彼は練習を見守った。
ウッシーズの選手は九人。ギリギリの人数でフリーバッティングを打者、捕手、投手、内野四人、外野二人とポジションを工夫して試合形式に行う。打者は一人一〇球で好きなように打ち、守備側は捕球練習を兼ねている。ランナー無しのシート打撃という感じだ。
「ちょうどいい機会だし、あんたが投げてもいいわね」
「腰がまだ痛いし、バイトあるし、パスで」
平日五日のシフトは出勤時間が午後四時から六時に変更された。学校が終わると、監督をし、そのままバイト先のたばたこ屋へ向かうスケジュールだ。
「ま、練習を観ることも大事よね」
と水木は理解を示すも、冷めた言葉に小さな胸がへっこんだ。
ベースランニングの最終走者、姫が回り終わったところで、彼はバイトを理由にグラウンドから去った。選手たちへの挨拶もなく――。
不安そうに晴太が尋ねる。
「ねーちゃん、あの人で大丈夫なの?」
「大丈夫……大丈夫よ!」と、自分に言い聞かせるように答えた。
「あ~……そうだ、今日も風呂上りの!」
バイト帰りに小さな幸せを見つけた中島は、途中の自販機でコーラを買った。
「ちょ、私の分は?」
背後から、昼でも夜でもお構いがない声がした。
「さすがガチスト――」と無防備に振り向いた。
その油断が彼の幸せを奪うことになるとは……。
プシューッ! ゴクゴクゴク――。
「あ~、美味しっ! やっぱ、夜はコーラね!」
「俺の、俺の生きがいがぁ……」
ほんの些細な、仕事終わりの一杯が水木の手に盗まれてしまったのだ。
月灯の下、青羽公園のベンチで誇らしげに少女は少年に語る
「隙を見せるから悪いのよ。海外行けばスリなんて日常茶飯事なのよ」
「ここは日本です。イン・ジャパンです」
「いいえ、コーラは世界中で飲まれている。つまり、コーラは世界中で価値があるもの。そんな価値があるものをカバンに入れない方が悪いのよ」
「なんだその理論……で、何しに来たんだよ。まさか、告白とか」
「アホか!」と少女はぴょこんとつま先立つ。
「あんた、すぐ帰ったじゃない。けっこう、あの子たち気にしていたの。『指導する価値もないのかな』って」
貧乏ゆすりのように何度もかかとが浮き沈んでいる。
「そっか、悪いことしちゃったな」と、少年は鼻をかいた。
少女が髪を揺らす。「え、違うの?」
「バイト遅れちゃマズいからさ。走って何分で着くか知るためだよ」
「そ……っか!」
暗闇から月が顔を出すよう、声色がかわった。
「で、率直に、どう?」と、再び座る。
目と鼻の先、少し照れながら、「野球が好きなんだなぁ、かな」と返す。
「えっと……なにそれ?」
少女の顔が曇るので、今度は少年が重い腰を上げた。
その脳裏には、練習をふざけることなく取り組む少年たちが映る。
『つよぽん、もっと腕振れって!』
『タイガー、やみくもに振るなって!』
『ワカメ王子、ちゃんと捕れよ!』
決して上手ではないけれど、必死にボールを投げ、打ち、追いかける姿はかつての自分と重なった。そして、その理由が少女の亡き父、前監督への思いがあるからこそで、自分が野球を始めたきっかけを少年は思い出していた。
「――正直、やる気のない連中だったら、テキトーにやろうとしたけど、死んだ親父さんのためにも頑張っていたし、無能監督でも、自分たちでなんとかしようと頑張っていたって話かな」
「ちょ、無能って私のこと?」
「他に誰がいるんだよ。ハナミズは『声出せェ!』しか言わないし」
「だって……素人が変に教えたら、フォームとか崩れて大変なんでしょ?」
「まぁ……」と、自然に素振りしてしまい、ベンチに座り直す。「弟、キャッチャーだっけ? あの子は相当上手いよ」
「マジ?! 甲子園行けそ?」
「ま……小学生でキャッチングとスローイングがいいし、おまけにバッティングもいいから可能性はあるかも」
「ほんと! ――で、どう強くするの?」
水木の問いに、しばし考え、「山寺がノックしてるんだっけ?」
「ええ。水曜は野球部休みだし、明日も頼むつもりだけど?」
「じゃあ、明日の休み時間に話すよ。強くなるかはわからないけど、勝つための練習メニューには少し当てがあるからさ」
「さすがは四十万大輔ね。お礼にこれをあげるわ」
手渡されたのは飲み残しのコーラだ。
「いらんって。最後まで飲めよ」と返そうとするも、「せっかく、オフィシャルで女子高生と間接キスできるのよ。喜びなさい!」
「それ、罰ゲームじゃね?」
「なんですって!」急に怒るのが水木だ。「これでも『顔だけは彼女』って言われるだからね!」
――それ、誉め言葉じゃないぞ……。
「ま、あの子らのためにも、俺の人生のためにも頑張るよ。じゃあな」
不意に吹く、そよ風に合わせて中島は腰を上げた。
――ごめんね。か弱い声が少年の袖を引っ張った。
「え? 何か言った?」、
「あ、いや、空耳じゃない? ――じゃ、頼むわよ。中島監督♪」
ブサイクなウインクでも、今日はどこか愛らしかった。満月に似た笑顔のせいか、『顔だけは彼女』のせいか、中島はひっそりと頷き、家に帰った。
「あー、コーラ飲みてぇ……でも、飲みたくねぇ……」
その夜、飲むか捨てるか、という男子が人生で二三度は経験する、欲望と理性の葛藤が彼を揺さぶった。結局、結論は出ず、冷蔵庫にしまったのだった。