【第一球】4
【4】
翌朝、中島大輔は焦っていた。
「やべー、寝坊したわ」
起床したとき、時計は九時ちょうど。謎のJKとのお約束の時間だ。
「あ~あ。人生終わったぁ~」
彼女だったら連絡するものの、連絡先を知らないので放置プレーしかない。
寝転がったままベランダを見ると、快晴なようで小鳥がさえずっていた。
「あ~あ。フラグだったな~」
昨夜の、世話人である亀岡の言葉を思い返すも、諦めて再び目を閉じた。
ちゅんちゅん♪ ピーヒョロロロ♪ コケコッコー!
「うっ、せぇっ!」ドン!
突然の音に驚き、罪もない小鳥が飛び立った。ひどい高校生だ。
「今時ニワトリ飼うってどこの家だ。近所迷惑で訴えてやる!」
ちゃぶ台に置かれたノートPCを立ち上げ、画面に映る自分を見て、あることを思い出す。あ、「メガネ。返してもらわないと……」
四十万から中島になるためには、伊達メガネが必須アイテムなのだ。
新しく買えばいいものの、昨日の亀岡曰く、
『メガネ族にとってメガネは本体。買い替えたら中島じゃなくなるわ』
『じゃあ、誰になるんだ?』
『ただのモブよ』
モブかぁ……行くだけ行くか。
悩み抜いた末、私服に着替え、滅多に乗らないママチャリ(六千円の中古品)で河川敷へと向かった。
ああ……いない。あ~あ……。
昨日の場所に着くも、彼女の姿はなかった。一縷の望み、メガネ放置に期待するも《中島》はいない。代わりに犬のう〇こがあった。悲しくなった。
そのとき、キーン!
身体に染み付く金属音が荒川の方から届く。
そう言えばあいつ――。
反対側の、荒川河川敷グラウンドへと向かった。
「ピッチャー、楽に楽に!」
「上司のストレス飛ばしたれ、バッチィ!」
日曜日の午前一〇時ともあり、野球グラウンドは小中学生や、仕事のうっぷんを原動力にバットを振り回すおじさんたちで埋まっていた。
自転車に乗りつつ、少し離れた距離から大輔は少年野球の試合を流し見ていく。すると、聞き覚えのある声がして、タイヤを停めた。
「ピッチャー、ビビってる! ヘイヘイヘイ♪ ビビッてる、ヘイ! ビビッてる、ヘイ! ピッチャー、ビビってる! ヘイヘイヘイ♪」
メガホンを荒々しく叩き、白と赤の帽子にユニフォームの上だけ着る、スカートスタイルの水木華がいた。そして、水木の顔の、あるモノに気付く。
――な、なかしまぁ……よかったぁ……ほんと。
感動の再会に目が潤む。もう会えないかと、荒川に沈められたかと思っていたからだ。しかし、《中島》は生きていた。
今すぐに取り戻したいが、不幸にもグラウンドを選手、保護者、野球帽のおっさんたちが注視している。
「あれ、あいつが監督なのか……?」
気になったのは水木がいるベンチだ。子供以外は、水木のみだ。それに、人数がギリギリの九人だ。
四十万大輔と周囲に気付かれる可能性もあるので、念のために買ったコンビニのマスクを着け、そっと近づき、スコアボードを望む。
「八対……〇か。やっぱり、あいつが監督なのか」
試合は四回表一死、胸に《USI》と書かれた青羽ウッシーズの攻撃中だ。
チーム名は保護者の声援でわかった。相手は青羽東小ブルーサンダースだ。
マウンドの少女が大きく振りかぶると、左腿を空高く限界まで上げ、弓のようにしなやかな腕の振りから投げ込む。
バシィ! 「ス、トラァァアアアアア!」
球審の高らかな声をスルーするほど、大輔は目を丸くした。
「マサカリかよ?! ずいぶんエグイ球を投げるなぁ」
豪快なフォームから放たれるノビのある速球に、ウッシーズの打者はあっけなく追い込まれて三振していく。そして、サンダースの攻撃を迎えた。
「八点取られたってことは、守備もボロボロなのか?」
彼の予想通り、実力差は一目瞭然だった。
ウッシーズの投手はボールを先行させ、二番と三番を続けて歩かせる。四番打者はしっかり球筋を見極めてから、甘い球を狙い撃つ。
カ、キーン! 強烈な打球はショートのグラブの上を超えた。
ボールが転々と左中間を割っていく。あっという間に走者と、打者も生還した。ランニングホームランだ。
その後も猛攻は止まらず、この回一挙七点が入った。
「ストライク、バッターアウッ! ゲーム、セッッッ!」
相手チームの勢いをウッシーズは跳ね返せず、淡々と試合は終わった。
「へっ! 女の方は弱っちいな。ガキがかわいそうだぜ」
と、鼻で笑うおっさんの言葉に彼は小さく頷いた。
試合後――グラウンド整備を控え選手に指示し、ごっつぁん体型の猪原監督が相手ベンチ、悔しがっている水木華に歩み寄った。
「華よ、わかっちゃろう。お前のチームは弱い。はよ、統合しい」
「誰がするもんですか! 今日負けたって平気。当日勝てばいいのよ!」
強気に言い返すも、目には悔し涙が光る。猪原は優しく諭す。
「じゃが、今のままだと優勝はおろか、今日みたくボロ負けじゃぞ」
「やってみなきゃわかんないでしょ!」
「やって、コールド負けやろう。今年一度も勝っていない。諦めも大事よ」
よくわからない方言と上から目線に、華は黒縁メガネを外す。
「諦める訳ないじゃない! 負けたのは……そう、このメガネのせいよ!」
「なんちゅー言い訳じゃ。往生際がわりぃやっちゃ。力兄にそっくりよ」
「フン、だ! うちのエースを引き抜いたおじさんなんて、大っっっ嫌い!」
グサッと、『パパとお風呂はイヤ!』ぐらい重たい一撃が入った。
「華ぁ、だからそれは――」
「監督。私が言いますから」
傷心中の監督に代わり、エースの三河奈桜が前に出る。
十二歳の彼女の身長は160㎝をゆうに超える。努力を惜しまない、芯のある性格はボーイッシュな髪型と相まって大人びた雰囲気を漂わせ、クラスの女子を毎日キュンキュンさせている。
「華ちゃん。サンダースに移籍したのは全国に行くためだから。だって、弱くなったウッシーズでは行けないでしょ?」
奈桜のストレートな物言いに、華の負けず嫌いスイッチが入った。
腕を組んでぴょこん。「たしかにうちは弱いわ。でもね、なおたんが抜けた事実は変わらない。これは大人の話。子供には関係がないわ、なおたん!」
「な、なおたんって呼ばないでくださいっ!」
耳を真っ赤にするので、華は勝ち誇るが、
「背伸びして言うなや。お前は何歳じゃ」
と猪原に言われ、すとん。「背伸び? はて、何のこと?」
前監督の、器の小ささを感じた奈桜は呆れるしかない。
「とにかく、晴太のために統合を。彼は全国に行くべきです!」
「あら、ずいぶん生意気になっちゃって。いいわ、その減らず口を後悔させてあげるんだから。大会でボコボコに打って、青羽バッティングセンターの開業を手伝ってあげる。せいぜい震えて眠りなさい。なおたんっ!」
「だから、なおたんって――」
ドスドス踏み鳴らして保護者の元へ向かう小さな背中を、猪原は憐みながらエースに強く言い聞かせた。
「奈桜はウッシーズの元エースじゃ。ちゃんと潰して夏に準備じゃ。それが天国の監督への供養にもなるし、弟も喜んでくれるはずじゃ。頑張れ!」
「はい、頑張ります!」
エースの力強い返事に、監督はポンと大きな腹を叩いて選手を集合させた。
「じゃあ、俺と黄金堂さんはガキと飯食い行くから、グラウンドの予約よろしくね。華ちゃん」
「すみません、高橋さんに黄金堂さん。お願いします」
「いーよ、いーよ。僕らはこんなことしかできないし。じゃ、お先に」
敗戦のショックから肩を落とす少年少女を励ましながら、陸橋下の駐車場へ消えていく保護者二人の背中に、水木華は深々と頭を下げ続けた。
――また負けた……。それもボロ負け……。このままじゃ……解散……。
己の不甲斐なさが情けなく、今朝の怒りが湧いてくる。
――あの、天パ野郎おぉぉ……ギロリ!
少女の猫目がグラウンド外の、怪しいマスクの男を捉えたのだ。
ビクッと、猫に睨まれたネズミのよう、彼に逃げる猶予はない。
「四十万大輔、遅いっ!」
マスクをはぎ取るや否や、華は問い詰める。
「本名はやめろって! バレたらどうすんだ!」
「誰も興味ないわよ。それより、なんで約束の時間に来なかったの! おかげでボロ負けじゃない!」
俺のせいなのか? 大輔はイラ立ちをいったん飲み込み、
「えっと……寝坊です。ごめんなさい」正直に自白した。
「はあ? 寝坊?」割と大きめな声で呆れられるも、「寝坊なら……しょうがないわね」と、なぜか許してもらえた。
さてはこいつ……遅刻魔か! 真意に気付くが、本題に入る。
「どうでもいいが、そのメガネを返せ。《中島》は俺の友達なんだ」
「中島? ああ、敗因のコレね。残念、彼は人質よ。返してほしければ、ちょっと私に付き合いなさい」
うわぁ……だっるぅ。もろに表情に出た。水木は苦笑する。
「ま、悪いとは思ってる。だから、うちの牛丼をおごってあ・げ・る♪」
うわぁ……ひどくブサイクなウインクだった。
青羽駅東口からまっすぐ進むと、ルンルン商店街がある。商店街のちょうど中間地点、路地の左角に水木華の実家&牛丼屋《きたの牛》が構えてある。
少々趣がある三階建てのビルで、一階が店舗、二三階は住居で、屋上のテラスでニワトリを飼っている。例の目覚ましだが、中島はまだ知らない。
店内は蕎麦屋を居抜きした名残で座敷があり、平日は近所の奥様やサラリーマン、休日はホテルヴュッフェに行った奥様を恨むおじさんで溢れ、一人暮らしの若者も牛丼弁当を買いに来る、近所の老若男女に愛される人気店だ。
ガラガラガラ――。
「いらっしゃ――って華ちゃん、おかえり。えっと……そちらは?」
戸口から現れた少女とその背後、マスク少年に店内のおじさんがざわつく。
「華ちゃんに彼氏っ!?」「おいおい、嘘だろっ!」「俺たちの娘が……」
根も葉もない話に、華は啖呵を切る。
「ゴラァァァッ! 誰が娘よ! 誰が彼氏よ! この子は知り合いよ! SNSで変な事を書いたら出禁にするわよ! いいわね!」
怯える常連客を庇うよう、厨房の母の幸子が口を尖らす。
「こら、華! 常連さんに失礼でしょ!」
「うっさい! 何が失礼よ。叱られて拝むような奴らじゃない」
おじさんたちは、ありがたやありがたや、と手を揉んだ。出世の階段を登ると誰も叱ってくれない。家に帰れば妻と娘が冷たい。つまり、寂しい。
「まーまー、華ちゃんも女将さんもお子様の前ですよぉ~」
火花を散らす母娘を見かね、店員の竹中舞が間に入った。二人のケンカに座敷の幼女がブルブルと震えているのだ。
ごめんね、と華はそっと頭を撫でてキッチン内の階段を上っていく。
ついていく少年の横顔に、舞が気付いた。
「あ、もしかして朝の子? 華ちゃん、いい子だから、よろしくね♪」
「あ、は、はい!」
大輔は舞の微笑みに見惚れたのだが、覇気ある返事が舞を確信させた。
――わざわざお弁当を買いに来たのもこのためか……恋が実ったね☆
そんな誤解をされているとは夢にも思わず、
「やっぱキレイだぁ~。叱られたいなぁ~」
と、大輔は舞にときめくのだった。
――二階 ダイニングリビング――
一階とは正反対に住居の内装は洋風で真新しかった。
華曰く、「二階は家族団欒スペースで、三階が寝室や子供部屋なの」らしい。
とりあえずテキトーに座って、と言われ、ダイニングの椅子に腰を下した。
居間は広く、片付いていた。ゲームの迫力が増しそうな大型テレビと五人は座れそうなL字ソファー、そして、場違いな壁のポスターに目が留まる。
「《小沢VS三橋の頂上決戦》……プロレス?」
ぶつかり合う肉体の、その下の棚に遺影が飾られていた。
細目で見つめる彼に、レンジで何かのタッパーを温める華が言う。
「私の父よ。プロレス好きだったの。去年の十二月に脳梗塞で亡くなって」
目に力が入った。大輔の母もこの世を去っている。でも、そのことは口に出したくはなかった。「――ほら、できたわよ」
う、うまそっ! じゅるり、よだれが溢れる。
出されたのは山盛りの牛丼だ。どんぶりの湯気が立ち、食卓には紅ショウガと温泉卵が入った小鉢が置かれた。
「い、いいのか? タダで食べて」
「ええ。今朝のお弁当の残りが余ったものだし」
「では、いただきます!」
と、スタートダッシュのごとく丼を片手にかき込んだ。
わずか五分で、「ごちそうさまでした!」
その食べっぷりに、「さすがは名門野球部ね……」と、華は目を丸くする。
牛丼は最高だ。しかも、温泉卵付き。野球部時代は食トレで一日五合の米を食べさせられた。そのときの友は塩だった。
「じゃあ、腹ごしらえも終わったことだし、本題に移りましょう」
華はメガネを返す。ようやく《中島》に戻った。
「試合見たでしょう? 正直、うちのチーム、どう?」
試合評を訊かれ、彼は率直に答えた。
「弱い。チームというか、チームじゃない。八点差から見たけど、全然声が出てない。それが淡白な攻撃につながっていた。もっとコンパクトに振らないとあの女の子は打てない。守備も暴投が多いし、基本がおろそかだった」
お茶をごくりと飲み、核心を突く。「――お前は監督だろ? 普段、何を教えているんだ? 試合中、メガホンをいじめただけじゃん。もっと捕手に指示したり、打者にアドバイスしたり、やるべきことがあるだろ? あと、『ビビリのテーマ』は相手からクレームくるからやめろ。相手投手が泣いちゃう」
「私だって、私だって、教えたいわよ……」
「だったら――」牛丼の恩もあり、優しく言ったつもりだった。
まっすぐ向けられた目から涙がこぼれ落ちていた。
「な、泣くことないじゃん……」嘘泣きではなかった。
動揺する彼に悪いと思い、ティッシュで鼻をかむ。
「私……野球を知らないのよ。勉強したからルールはわかる。でも、練習メニューや試合中の采配はわからなくて……」
「じゃあ、なんで監督やってんだよ」
「うっさい!」強めな言葉と丸いティッシュが飛んでくる。
ポン! よけられず、中島に当たる。ひどく湿っていた。
「汚ねぇな! 人に鼻水爆弾投げるとか、やベーな。マジで」
「事情も知らないのに、あんたに何がわかんのよっ!」
ゴーッと轟音を撒き散らす、剛速球のようで、捕ることができなかった。
後逸した言い訳を記憶の隅々から探った。
『知らないけど、言う権利はあんだよ』
でも、そんな言葉、絶対に口に出したくなかった。
「……ごめん」
飾らない、真っ白な返球を華はそっとキャッチする。
「私も、その……言い過ぎたわ」
「事情って、なにかあるのか?」恐る恐る尋ねた。
水木は流し台で食器を洗い始めた。その背中はどこか物淋しい。
「父はウッシーズの監督だったの。去年の暮れに亡くなって、大人がチームの今後を話し合ったんだけど、誰も監督をやらなかった。だから、野球初心者の私が監督に立候補した。しかも、高校生の私が。商店街の大人の代わりに」
言い回す言葉には怒りが滲んでいる。
「誰も監督を継がないのか? ひどい話だな」
「少年野球の監督は色々あんのよ。保護者や相手チームとの関係構築、練習場所の確保に練習メニューの考案、あとお茶くみ……全てがボランティア。仕事の合間にやると、とてもじゃないけど途中で投げたくなるわね」
そのとき、疑問が口走る。「でも、ハナミズが監督なら問題解決だろう?」
「ちょっ、ハナミズって私のこと?!」
「ティッシュぶつけやがったし、水木華って名前だし」
再び向かいに座った華は鼻をぷくりと膨らませる。
「で! 問題は別よ。もともと、ウッシーズは父を中心に商店街が発足させたチームなの。家庭や経済的な理由で野球ができない子や、下手な子でも楽しくできるように作ったの。だけど、父が死に他チームとの統合案が商店街の総会で出た。『全国大会からボールが変わる』という、しょーもない理由で」
「えっ、軟球変わるの?!」
中島がビックリするので、居間に転がっていた新ボールを手渡した。縫い目をかたどった部分は変わらないものの、表面がハート模様だ。従来よりもゴツゴツする。「――なんか、ダサいな」
「そう? 私的には可愛いけど――で、話を戻すけど」
つまり、ボールが変わるので新しく買う必要があり、新監督を立てるよりも他のチームと統合すれば安く済むと、商店街の総会で議論されたのだ。
そもそも、ウッシーズは商店街のカンパで用具が買われている。ユニフォームもバットも全てカンパで、その大半は華の父が負担していた。
「要は、お金の問題で統合するってこと?」
「それもあるけど、もっと根本的な問題があるのよ」
重たい口調に、中島は身構えた。「……根本的な問題とは?」
「ええ。その問題とは……私が監督になって一度も勝てないことよ」
「大問題じゃねーか!」
「ただいま一四連敗です!」
「自信満々に言うなよ。頑張れよ……」
「頑張っているわよ! でも、エースやショートが引き抜かれちゃって、父親の転勤でレギュラーが引っ越したり、引退したりで大変なんだもん……」
「つまり、有望な選手がいないせいだと?」
「ご明察♪」ぱちん、指を鳴らし、「去年のウッシーズは秋の区大会でベスト8に進出するほど強かった。だけど、今は選手がギリ九よ。挙句の果てに一度も勝てない私の手腕を問題視した連中が、この前の総会で再び統合案を出しやがって、存続条件に《五月五日の商店街大会で優勝》を勝手に決めたの。もしも優勝を逃せばサンダースと統合になり、ウッシーズは消滅してしまうのよ」
「……もう統合でいいんじゃない?」
「バカッ!」華の口調が強まっていく。「サンダースは三月の新人戦優勝チームなのよ。もしも、統合したら、うちの下手な子がどうなるかは、今日の試合を観てればわかるでしょ!」
ブルーサンダースはレギュラーが優遇され、ベンチ選手はトンボ掛けや用具整理など雑用を担当する。その真意はわからないものの、中島は前学校のレギュラーと控え選手の階級制度と重なり、いい気はしなかった。
「だから絶対に優勝しなきゃ! 子供たちにとって、ウッシーズは秘密基地なのよ。なのに、大人が勝手に壊す。自分たちの都合を優先させ、子供の気持ちなんて雑草以下よ。だから、あの大人たちをぎゃふんと言わす! 『子供にだって、負けたくない意地があんのよ』って!」
少女の眼差しはとても熱かった。逃げるように彼は視線を背けた。
「でも、俺が監督しても優勝する保証はないし、そんな責任は背負えない」
その一言は、彼女の秘めたる邪悪なオーラを解放させた。
「バラスバラスバラスバラスバラスバラスバラスバラスバラスバラス」
「怖えーよ! 『逃げちゃダメだ』的なのはやめろ」
「いいえ、『バルス』的なものよ。天から地の果てまで堕ちればいい!」
「だから、怖いって!」
とはいえ、正体をバラされたら終わりだ。
「その……俺の正体を知っているのはどうして?」と訊く。
「えへへっ、内緒♪」――出た、内緒!
眉をひそめた彼を置き、三階からA4ファイルを持って来る。
ペラペラ捲ると、彼の栄光の軌跡が几帳面に綴られていた。
《埼京大春日部、春季関東大会でベスト4進出! 一年生捕手が決勝弾!》
《埼京大春日部、甲子園出場決定! 一年生捕手がエースを好リード》
《埼京大春日部 一年捕手の四十万 一回戦で逆転サヨナラ弾!》
《春日部の魔法使い、一年生捕手の四十万、猛打賞でチームを勝利に導く》
《クロスプレーで甲子園が血に染まる! しかも、サヨナラ誤審?!》
過去の新聞記事だ。そっと中島は閉じる。
華がファイルを開き直す。「私の弟、キャッチャーの晴太ね。あんたの大ファンなのよ」
「俺の? どうせ嘘だろ」
「嘘じゃないわ。――ほら、甲子園のチケット。関東大会優勝からあの子ファンになって、わざわざ甲子園に見に行ったのよ。一回戦の、あのサヨナラホームランはすごかった! 打った瞬間、みんながボールを見て、『入れ!』って願った! で、みんなが立った! あれはクララ以上の感動ね!」
「(クララって……)悪いけど、俺のことを知っているなら、野球を辞めた理由もわかるだろう。だからさ、あきらめ――」
「私はあんたの味方よ!」
華は遮るように言った。その黒目は一寸も揺らぐことはない。
「味方って――」
「あれは事故。故意じゃない。週刊誌であの学校のヤバさを知った。で、監督が辞めた経緯も知った。ネットで誹謗中傷されても、私はあんたの――」
なんだか熱くなってきた。温かい、甘いミルクティーを飲んだような、ほのかに体温が高まってくる感じ……。なんだこれ、ヤバい……。
「だから、書き込む奴はレスバで論破して――って、泣いているの?」
リセットボタンが押されたよう、目前が真っ黒になった。
「悪い。帰るわ」咄嗟に立ち上がる。「え、ちょ――」
制する少女を振り切って、少年は高速に階段を降りていき、店員のお姉さんに軽く会釈して店を出ていく。
その様子を見た常連客は口々に言った。
「あ~あ。華ちゃん、フラれちゃった……」と――。